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さすらいの佛教語
39回 さすらいの佛教語
 以前、「老婆心ながら」と断ってモノを言おうとしたら、「お節介なのは爺さんも同じだべ」とある老婆に突っ込まれてしまった。誠にもっともなご意見で、個人的には「老爺心」でもいいとは思っているのだが、どうも典拠によれば「老婆」ばかりのようである。
 しかも出典は禅の語録ばかり。『無門関』や『碧巌録』などによく用いられる。
 老婆が孫や子供を慈しむように、道場の師家が修行者にあの手この手を尽くして指導することをいうわけだが、その気持ちが切実であるところから「老婆心切」という言い方もする。
 しかし修行中の気づきは印象的で衝撃を伴うほど、換言すれば忘れられないほどいいとされる。だから禅門では「深切」という言葉も使う。その観点からは、あれこれ手を尽くすことで却って印象を弱め、驚きを奪ってしまうことも往々にして起こる。
前触れもなく、突然経験したほうが印象的に決まっているではないか。そこで「老婆心」は、すぐに「余計なお節介」という意味を含むようになるのである。
 老婆心ながら申し上げますが、と本当に思うなら、申し上げないほうがいいのである。
 たしかに爺さんよりは婆さんのほうが、加齢によって口数は減らない気がする。何年かまえの統計だが、妻に先立たれた夫の余命は、平均二年。夫を見送った妻の余命は、十七年とあるのを見て、愕然とした。単に平均寿命を比較しても六、七年も違う。これではたしかに「老爺心」など発揮する間もなく、静かになってしまう道理だ。
 武士道の影響もあるのだろうか。余計なことと思ったら、男は黙ってしまう。しかし、そんなことでは黙らないのが老婆なのだろう。昔から、嫁・姑の問題は古今東西どこにでも伝わっているが、婿と舅、あるいは嫁と舅との関係はあまり取り沙汰されない。
 しかし「老婆心」という言葉の問題は、そういう大袈裟な問題ではない。要は老爺である禅僧が、普段とは違う切実な気分を他者としての「老婆」に託して表現したにすぎない。老婆心ながら、世間のすべての老婆の皆さまにご理解を求める次第である。べつにご協力までは、求めない。
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「心象風月bar暮らしのなかの仏教語」

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