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さすらいの佛教語
40回 さすらいの佛教語
 不可思議と云ってもほとんど意味は変わらない。書き下しにするとそれぞれ「思議せず」と「思議すべからず」になるが、この「可し」は可能の意味だから、考えられない、それゆえ考えないのである。
 だいたい思議というのはロクなもんじゃないのだが、人間はどうしても合理的に考えて解ろうとすることをやめない。しかしこの場合は、さすがにそれが無理だと、感じるのだろう。
 サンスクリットのアチンティヤ(acintya)の訳で、ほかに「難思」「難思議」とも訳されるが、本来は仏のさとりの境地、あるいはそれによって生ずる智慧や神通力などを形容する。不可思議光、不可思議功徳などとも使われ、どうしてそうなるのか全くわからないが、現にこうして光ってるじゃないか、素晴らしい功徳があったじゃないか、と感じ入ることになる。
 禅も修行し、最終的には「南無阿弥陀仏」という六字の名号を勧めた遊行聖の一遍上人は、「故に名号を『不可思議功徳』ともとき、又は『真実』とも説」くと、語録に述べている。六字ばかりでなく、呪文を唱える功徳そのものが不可思議だというのである。
 しかし人は、合理的な説明がつかないと、すぐにそれは「怪しい」「奇っ怪だ」と思うクセがある。それゆえ「不思議」そのものにそのような意味も派生してしまう。だからそんなの迷信に違いないと、永年続いてきた習慣をやめたりしてしまう。
 なんと傲慢なことだろう。いったいこんな中途半端な感覚器と、それを通じて受けとめた材料だけによる「合理的」な思考の、どこがそんなに信用できるのだろう。これも不思議というしかないが、この場合はむろん「奇っ怪」の意味だ。
 自分はどうして生まれてきたのか。死んだらどうなるのか。宇宙の始まりはどんなふうだったのか。いずれも仏教からすれば不可思議な命題で、わからないままに生きていくしかないわけだが、どうやら人々は、科学が進歩しさえすれば不思議はなくなるものと、思議もしないで信じ込んでいるらしい。とても不思議なことだが、科学もやはり、一種の宗教なのではないか……。
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「心象風月bar暮らしのなかの仏教語」

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