平成29年3月 ノジュール 2017年3月号掲載
 
見えない輪
 

滝桜に向き合うと、私は時に「見えない輪」を二つ感じる。謎をかけるつもりはないので申し上げてしまおう。「見えない輪」とは、一つは年輪、もう一つはその子孫樹が描く巨大な円のことである。

まず年輪だが、当然ながらこれは伐らなければ見えない。大正十一年、滝桜が山梨の神代桜、岐阜の薄墨桜と共に天然記念物に指定される際、三人の学者が樹齢を推定した。三人はそれぞれ七百年余り、千年ほど、そして千三百年くらいと提出したらしいが、結局「中をとって」千年になったというのだから驚く。

当時は正確な推定法もなかったし、仕方のないことだとは思う。しかし困るのは、指定を受けた大正十一年からすでに九十五年経った今でも、初めが曖昧なため「千百年」とは言いにくい。今は「千年超」と表されることが多いのだが、もしかするとあと百年経っても「千年超」ではないだろうか。

ただいずれにしても滝桜がこの町にあるお陰で、我々はいつしか長大な歴史の中の存在として自らを感じているような気がする。風雪に耐え、それどころか鎌倉時代の寒冷期さえ生き残ったこの木に倣えば、どんな現実の変化にも泰然と生き抜こうと思えるのだ。

もう一つの「見えない輪」は、じつは昭和四十年代に一定樹齢以上の桜の分布を調べた二人によって発見された。発表当時八十歳だった柳沼(やぎぬま)吉四郎氏と七十五歳の木目沢(このめざわ)伝重郎氏は、何年もかけて近郷の桜の大きさを調べ、その分布地図を作った。その結果、神社仏閣や旧家旧墓地などに、桜は同心円状に植えらていることが判ったのである。

最初にこの木を保護したのは一五○四年に三春町を拓いた田村義(よし)顕(あき)公とされる。桜の木そのものに禄を与え、世話をしてくれる近隣の住民の租税を事実上免除した。開花を早馬で知らせることを義務づけたというから相当の愛着である。続く隆顕公や清顕公も、子孫木を領内の寺社仏閣などに植え、いわば枝垂れ桜によるマーキングを拡げていったとされるのだが、その伝説が間違いなかったことを二人は裏付けたのである。思うに当時から、タネを培養して専門に苗を育てる人々がいたのではないだろうか。

私の知っている年代では、柳沼ハナさん、宗像宗光さんなどが苗木を育てていた。今は村田春治さん、宗像節子さんなどが各地に詳細な説明書をつけて自身の育てた苗木を送っている。思えば宅配便というシステムができてから、「見えない輪」は同心円を大きくはみだし、「円」とは呼べないほど自由に大きくなりつつある。

遠くはポーランドの日本美術技術博物館「まんが」の庭や、ハンガリーの汎ヨーロッパ・ピクニック記念公園に、またオーストリアでは親日家だった指揮者カラヤンの生誕百年を記念し、自宅や墓地、付近の公園などに合計八本が植樹された。東日本大震災前には約三千本ほどの子孫樹が世界中に広がっていたとされるが、震災後はブータンなどにも植えられ、飛躍的に増加しているようである。

東日本大震災による死者は一万五千人を超えた。三春に住む知人はその数だけ滝桜の子孫木を植えたいと、無償の寄付植樹を続けている。どこまでその悲願が遂行できるかは謎だし、私は途中で諦めてもそれはそれで自然なことだと思うが、要は昔から、何か重大なことが起こると必ず滝桜の子孫木を植たいと思う人々がいたということだろう。

うちのお寺にも樹齢四百五十年ほどの枝垂れ桜があるのだが、これもあるいは清顕公が愛姫誕生を祝って植樹したのではないか……。「あぶくま桜回廊」と呼ばれる桜たちも、おそらく慶弔交々の大事の記念として植えられたのだろう。「見えない輪」は、毎年わが身に一輪を刻みつつ、今やそれぞれに歴史を抱え、空間を飛び越え、果てしなく広がりつづけているのである。


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