2016年2月 中日新聞・東京新聞・北海道新聞・北陸中日新聞連載 うゐの奥山

第四七回 負けるが勝ち


去年から今年にかけて、じつに穏やかで雪も降らない日々が続いている。年末から紅梅が咲き、蕗の薹までもう出始めている。

そんな状況で特徴的な挨拶は、「このままでは済まないでしょうねぇ」とか、「そのうちドカッと来るでしょう」といったもので、どうも我々は、いずれ必ずバランスがとれるものと思っているらしく、基本的には「楽あれば苦あり」とか、「禍福はあざなえる縄の如し」などの諺に準拠した考え方で自然の推移を見つめているようだ。

その考え方は、確かに震災後のような復興期には頼もしいし、相応(ふさわ)しいだろう。しかし自然はそう好都合に変化するわけではなく、このままずっと雪が降らない可能性だってあるし、逆にこれでもかというほど大雪が続く可能性だって皆無ではない。だいたい我々の自然観は、甘いのである。

それでも日本人は、そんななかから「負けるが勝ち」という凄い諺を作った。これは今は負けてもそのうち勝つという意味ではないし、負けることが次の勝利への礎になるというのでもない。負けることがそのまま勝つことだと、普通では理解できない主張をしているのである。

たいていの諺は、外国語に訳せるものだが、この諺ばかりは訳しようがないと、なにかで読んだ記憶がある。負けること即ち勝つことなどという考え方は、西欧には存在しないらしい。

負けることがそのまま勝ち、ということは、その一瞬のうちに価値観の転換があるということだ。こちらのモノサシでは確かに負けかもしれないが、この価値観だったら勝ちでしょうという転換が、即座に為(な)されるのである。これは言わば、価値観を一本化していない生き方の証左でもある。できればこんな価値観の中では初めから負けたいという反骨心が、世にはあり得るということなのである。

そんなことを思ったのは、生まれてからずっと耳が聞こえなかったキヨ子さんという女性を、先日八十九歳で見送ったのである。この場合は反骨とは無関係だが、彼女が通常の価値観と別な世界に生きたことは間違いない。人の言葉も自分の声も聞こえず、それでも彼女は地域の人々に心を開き、「キヨ子語」と言われる独自のジェスチャーや言葉で人々と心を通わせつづけた。

私は彼女に、「天耳(てんに)院」という院号をつけた。また聞こえないがゆえに周囲に「愛敬(あいきょう)」の心を保ったから、「愛敬」という諱(いみな)も付けた。そして道号の部分には、「キヨ子」のキヨをかけて「淨福(じょうふく)」と名づけたのだが、これこそ「負けるが勝ち」の人生ではなかっただろうか。

耳が聞こえないことは即ハンディキャップという西洋風の見方が、今や福祉の世界でさえ一般的である。しかしなかには、耳が聞こえないがゆえに至高の「淨福」を達成する人もいるのだと申し上げたい。むろん、実際に聞こえたらどうであったかは知るすべもないのだが……。



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