2018年4月 中日新聞・北陸中日新聞・東京新聞連載 うゐの奥山

第七一回 忖度と談合

うちの地方では法事などの墓参の際に、お墓で「だんご」を食べる習慣がある。最近は普通のお菓子だったりもするが、「だんご」が出てくると必ず誰かが子供に向かって言う。「このだんご食べると、頭がよくなるんだぞ」。

そこで私は、つい怺えきれずに呟いてしまう。「いや、だんごを食べても頭はよくなりませんよ」。そして振り返った人々に、「だんご」と「談合」の言葉遊びについて話すのである。

親戚一同が集まったこんな機会に、将来のことも含めてよくよく「談合」しておけば「頭痛の種がなくなる」→「だんご」を食べれば「頭が痛くならない」、と変化したわけだが、ここで止めないと原義がわからなくなる。嫌な役ではあるが、私はお墓で「頭がよくなる」というデマを聞くたびにいちいち修正しているのである。

言葉はかように変化するわけだが、以前はこの「談合」もまだ好感をもって受け止められていた。たとえば戦国時代の「談合」は戦に勝つためにも不可欠なこと。よくよく話し合うという「談合」に、べつに何の咎(とが)もあろうはずはない。

ところがこの言葉、建設業界に使われるやあっという間に悪い言葉に成り下がった。「談合請負」「入札談合」など、辞書的にも原義に迫る勢いだし、世間では圧倒的にそっちで受け取られてしまう。「談合する人は、もう充分頭がいいんだよね」子供にまでそんな皮肉を言われては、もはや「談合」の原義の復権など諦めてただ嗤うしかない。本来的「談合」はすでに死語と呼んでいいのかもしれない。

さて最近は、「忖度」という素晴らしい言葉も瀕死状態にある。孟子の「惻隠(そくいん)の心」が性善説のベースだとも言われるのだし、他人の気持ちを推し量ることが素晴らしくないはずはない。

孔子先生も「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」と仰っているが、そうした信条を実践するにも、まず「あの人はこんなこと欲しないかなぁ」「あ、逆にこんなことは喜ぶかなぁ」と、相手の心を忖度しなくては始まらない。惻隠(相手の不幸をあわれみいたむ)の心の底にだって、必ずや忖度がはたらいているはずなのである。

ちなみに、孟子が人間に生来具わっていると見た四つの心は、「惻隠の心」「羞悪(しゅうお)の心」「辞譲(じじょう)の心」「是非の心」だが、最初の惻隠の心が最も重要で、そこから恥じ悪(にく)む(羞悪の)心も、遠慮する(辞譲の)心も、善悪を判断する(是非の)心も派生してくると言う。

おそらく「忖度」は、「惻隠」も支えているし、今後も重要な心のはたらきであり続けるだろう。ただ今回の「森友問題」では、性善説までは崩れないにしても、少なくとも「忖度」じたいが悪事を連想させてしまう事態は避けられないのではないか。公文書改竄という犯罪のハードルを越えてしまったのだし。

「こうすれば上司も喜ぶだろう」「これならもっと喜ぶに違いない」それは普通の勤め人だって仕事のモチベーションにできる立派な想像力だ。しかしそうして想いを巡らすまえに、忌憚なく本人に「どうなの?」と訊いてみては如何だろうか?

それなら半端な忖度は不要だ。

本当に喜ぶかどうかも分からないことを、そう思い込んでし続けるのは「独善」である。訊けば分かることを訊かずに想像することも、正しい「忖度」ではあるまい。「忖度」は油断するとすぐに「思い込み」や「独善」に堕落し、惻隠もありがた迷惑になり、辞譲も押しつけに変わって是非も善悪も見えなくなる。

今回のことは、人間の性が「悪」に変わったのではなく、また「忖度」じたいが悪いのでもなく、ただ訊くに訊けない雰囲気のせいだと思いたい。私は霞ヶ関界隈のそんな空気の状態と、それによる内部被曝が心配なのである。


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