2018年5月 中日新聞・北陸中日新聞・東京新聞連載 うゐの奥山

第七二回 しゃがむ土偶

夕焼け空にカラスが飛ぶのを見て、ふと「七つの子」を憶いだした。「カラス、なぜ鳴くの? カラスは山に、可愛い七つの子があるからよ」(野口雨情作詞)というあの曲である。

そしてこれまた自然に、大学時代に中国から留学していた女性に聞いた話が久しぶりに甦った。彼女は「どうしてカラスの子が可愛いのか、理解できない」のだそうだ。成鳥であれ子鳥であれ、カラスはカラスだろうと思う彼女だが、日本語学習のために「七つの子」を覚えて歌わされ、摩訶不思議な気分になったというのである。

なるほど、彼女だけでなく、確かにあの真っ黒い鳥を好む人々は世界にも珍しいに違いない。アメリカでもヨーロッパでも、日本のよりちょっと小ぶりだが嫌われ者のようだったし、ハワイでは「カラスがいない」ことを自慢された。自力で飛んでこられる距離に大陸はないし、幸い船に潜んでやってきたカラスもいないという話だった。日本でも成鳥のカラスは間違いなく嫌われている。黒い羽根のせいか、頭の良さも「狡猾」としか思われないのが現状だろう。

昔から私は、もしもカラスが白かったらと、よく考えたものだった。あれほど頭がよくてしかも純白で美しかったら、人は見かけるだけで讃美し、日常的に讃美されればそれによって性格も大いに変わるのではないか……、白く輝かしい「賢明な」幸運の鳥として、カラスが人間界の福祉にさえ寄与することもあり得たのではないか……。それが私の繰り返し辿った推論であった。

しかしそんなあり得ない仮定で推論しても何も始まらない。むしろ日本人がなにゆえカラスでも「丸い目をしたいい子だよ」と見るのか、「可愛、可愛と鳴く」母カラスまで愛でるのか、その点こそ考察すべきだろうと思ったのである。

そう思ってみると、いやいや母ばかりではないのだと思い当たる。行基菩薩は「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」と詠んだし、芭蕉は「父母のしきりに恋し雉(き)子(じ)の声」と詠んだ。鳥の親子の情愛に、よほど感心してしまったのだろうか。

思えば日本人は、「芽出たい」という植物の自発的な芽吹きを、「愛でたい」に置き換えた民族。植物でも動物でも、とにかく「芽出る」ことがとりわけ嬉しいに違いない。

そういえば縄文時代には「土偶」が数多く作られた。まだまだ謎の多い代物ではあるが、多くが妊娠・出産・子育てに関係するテーマで作られたのは間違いなさそうだ。

なかでも我が福島県の上岡(かみおか)遺跡(飯坂町東湯野)から発掘された「しゃがむ土偶」は面白い。江戸時代まで続いたとされる出産の姿「座産」なのか、あるいは幼子をあやす姿なのか、いずれにせよその造形には古代人が妊娠や出産に感じた神秘、そして祈りが凝縮されているような気がする。

幸い二○一一年六月に国重要文化財に指定され(美術工芸品考古資料)、今では「じょーもぴあ宮畑」(福島市岡島字宮田78)という施設でじっくり対面できる。

二十世紀になってアメリカから入った「母の日」とカーネーションに文句をつけるわけではないが、時には国によって違う「母の日」など気にせず、古代から日本人が敬った「産(うぶ)土(すな)の神」の原型として「しゃがむ土偶」に向き合ってみては如何だろうか。

自らの内部で他者を育む懐妊と出産こそ、仏教の「慈悲」のモデルでもある。きっとカラスだけでなく、「オケラだってミミズだってアメンボだって」(やなせたかし作詞『手のひらを太陽に』)みんなみんな生きているだけで友達なんだと思えるに違いない。


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