bお知らせ
bプロフィール
b新刊案内
b出版一覧
bインタビュー
b対 談
b雪月花
bエッセイ
b書 評
bその他
bAudio&Visual
b講演会
b読者の声

購買部 ご利用案内 お問い合せ
『ベラボーな生活』(1)

08

【更新日:12月8日】 【No.7】投稿者:小林様、46才、広島県の男性

『ベラボーな生活』を読み直していて、「混沌」について考えました。
昔からなんとなく「白の反対は黒」だと思っていました。でも紅白というのもあるし、文化の違う国へ行けばもっと他の反対があるのかも知れません。
そこで思い出したのが子供の頃にやっていたクレヨン遊びです。画用紙に赤や青などのいろんな色を塗り重ねていくと黒っぽい色になっていきます。しかしそれは黒ではなく、何とも言えない色なのですが、これが「混沌」の色ではないかと考えました。ではその反対の色はと言うと「すべての色」なのだと思います。つまり「色」の反対が「混沌」なのではないかと考えた訳です。
「色」は放っておくと混じりあって「混沌」になっていくのが自然だと思います。また普通は「色」がある方に価値を感じ、「混沌」は無駄のように思われており、人類の営為は「色」の創造(エントロピーの低減)の方に注がれてきました。
自然に逆行することの意味や意義は、今のところよく分かりませんが、もう少し考えてみようと思っています。

07

【更新日:2月7日】 【No.6】投稿者:小野様、37才、新潟県の女性

玄侑先生こんにちは。このお手紙が先生に直接読んで頂けるかと思うと感激です!
現在私は右脳左脳の全能教育を行う教室の講師として働いております。この仕事に携わるかどうか悩んだ時に先生の講演を拝聴し、(2004年11月「五十嵐薬局創業祭記念講演会」)迷いを吹き消しました。大変な修行をされたことを「ベラボーな生活」で非常に分かり易く且つ、ユーモラスに書かれ、夜中に一人でケラけらと笑って読ませて頂きました。
共鳴しましたのは「気力が体と気持ちを自由に変化させる」というところで、感しましたのは「なんでも触れたがっていた手は大人になってお互いに合わされ、どこでも踏みしめたいと思っていた両脚は風格を備えて静かに組まれる」とおっしゃられたところです。その域に達するにはやはり年を重ね、経験を重ねなくてはならないのでしょうね。会津三春町には第二のお母さんがおります。ぜひ一度福聚寺を訪れたいと思っております。次回は「般若心経」の感想を送らせていただきたいです。(難しかったですが・・)

【更新日:2月4日】 【No.5】投稿者:片岡様、58才、兵庫県の女性

兵庫県のある町で小売業を営むものです。
しばしの脳みその休息を、と読ませていただいております。
感想文と言うほどでもないのですが、本文中、スズメバチ、の事ですが、恐れ、怒りの波動を蜂は感じるのではないか、、と書いておられますが、
私はお書きになっておられる文章そのままの事を長い間昆虫に実践しております。
まず、挨拶、これが肝心です。そして、話しかけます。優しくです。
大概は、室内に蜂類が紛れ込んだ時に窓から外に出ていただきたい時にそうします。
葉っぱのようなものに、一旦とまって貰う事もあります。これで、一度も刺されておりません。本当です。
蜂さん、こんにちは!ここは何かと不便だしあなたの欲しいものはないのよ、外に出ようね、案内するからね。
と話しています。人は笑いますが私は真剣です。
今まで変わり者と思われていた事を書いていただき、感激しています。

06

【更新日:12月19日】 【No.4】投稿者:相原様、38才、千葉県の女性

「べラボーな生活」を拝見しました。
先生におかれましては、お正月が待ち遠しいことでしょう。
新到さんのどんなご馳走を今年は召し上がられることでしょう(^^)v
先日、玄侑先生に初めてお会いしたとき、私の太い腿もさることながら、先生の裸足がお寒いのではと心配しました。
しかし、禅道場のべラボーな生活の一部分を垣間見させていただき、裸足など序の口であることに面喰ってしまいました。
先生の奥深いお人柄は、長い修行の末に培われたものであることがよく分かりました。
どの内容も驚きの連続でしたが、一番心に残っているのは「自分をおだてる能力」です。私が一番苦手とするところですので、いつの日か道場で教えを乞いたいと思います。
その節は、よろしくお願いいたします。

【更新日:9月15日】 【No.3】投稿者:金子様、28才、東京都の女性

初めまして。最近玄侑宗久さんの著者をいろいろと読ませて頂いております。
さて、「ベラボーな生活」を読み終えたのですが、玄侑さんの本は本当に面白いですね。私はただ今妊娠4ヶ月目でつわりが大変なのですが、金閣寺でのカレーのくだりは読むのが辛かったです。(笑)
高校生の頃、40歳くらいで尼さんになろうと校長先生にお伝えしたところ(仏教系の学校でした。)「お前みたいな俗物には難しい。」と言われた事を思い出しました。私にはどうやら修行は無理だなと本の内容も合わせて痛感致しました。
ただ、これからも中学生の頃からの私の疑問、仏教とは何ぞやという事をいろいろな角度から教えてくださいましね。
ありがとうございました。

【更新日:9月1日】 【No.2】投稿者:小林様、44才、広島の男性

『ベラボーな生活』の「仏教では、耳だけじゃなく、眼も鼻も舌も皮膚も、じつはそうして選択的に情報を感受しているのだと云う」というあたりを読んでいて次のようなことを思い出しました。
私の髪の毛はテッペンが薄く、いわゆる河童ハゲです。もちろん自分の髪の毛は気になるのですが、他人の頭もついつい見る癖があり、若くまだ薄くない人でも将来ハゲそうか思わず予想している始末です。しかしある日、自分ではちっともハゲだと思っていない人をハゲだと言っている陰口を耳にしました。なんとも腑に落ちずその人の頭を見直していて、ハタと気が付きました。私が見ていたのは彼の頭全体ではなく、テッペンだけだったのです(彼はハゲ上がるタイプだったのです)
要するに私はハゲ全般を見ていたのではなく、自分がコンプレックスを持っているテッペンだけを選択的に見ていたのでした。これはまさに偏見ですが、至って人間臭い行為のように思います。したがって「偏見を無くそう!」などと良い人ぶるつもりはないのですが、偏見を和らげることで見えてくるものもあることに気付きましたので、偏見を噛み締めながらそれを和らげていく行為を続けて行こうと今は思っています。

【更新日:8月25日】 【No.1】投稿者:小林様、44才、広島の男性

『ベラボーな生活』を読んでいて、「玄」について考えました。
『老子(福永光司著)』によれば「それは人間の言葉による秩序づけを拒み、人間の感覚知覚を寄せ付けぬ非合理な渾沌ではあるが、全く死滅した渾沌ではなく、ほのかな赤味を生の胎動として覗かせる黒く巨大なエトヴァスであった」とあります。つまりエントロピーが小さく白黒がはっきりした生々しい(若々しい)世界ではなく、かと言ってエントロピー最大で真っ黒な「死の世界」でもなく、その手前の少し「ゆらぎ」のある老成した大人の世界を「玄」と呼んでいるのではないでしょうか。
もしそうであるならば納得できることが身近にひとつあります。それは真っ黒な礼服を生理的に受け付けれないことです。
結婚式で礼服姿の列を眺めていると、様々な黒があることに気付きます。喜ばしい席に真っ黒な礼服では気が滅入るので少し色のあるものを着たいのですが、派手な服装で目立つことは参列者としてのマナーに反するので少し鮮やかな黒を私は選んでいます。
そんなつもりで選んだ礼服ですが、葬式にも着ています。生々しさと死の間にある「鮮やかな黒」は、故人を偲ぶ場にも相応しいと勝手に思っている次第です。

前に戻るup