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【更新日:8月17日】 【No.5投稿者:玄冬様

ないがまま ――『アブラクサスの祭』より――

私は今日、あることを発見し、非常に驚きました。
それは、『アブラクサスの祭』(玄侑宗久・著 2001年)が、映画化され、今年10月に公開されるという情報です。なぜ、発表されてから9年経ったこの時期なのか、とても不思議です。
実は、私のブログタイトル「ないがまま」は、私のオリジナルではありません。
『アブラクサスの祭』の中の一節です。さらには、宗久さんの造語です。
以下は、『アブラクサスの祭』の書評ではありません。
玄冬の「ないがまま」の物語です。

私が昔、『アブラクサスの祭』を読んで、最も印象に残った句が「ないがまま」でした。

臨済宗妙心寺派・福聚寺(福島県三春町)の住職の長男として生まれた宗久さんは、すんなり寺を継いでいいのか苦悩する。
モルモン教、統一教会、天理教、イスラム教、ものみの塔、などに触れ、さまざまな職業を転々とし、やがて実家の副住職になったのは30歳を過ぎてから。
しかし、小説を書きたいという思いは捨てきれず、苦悩はくすぶり続ける。
『アブラクサスの祭』の主人公・浄念は、宗久さんの投影だ。
ロック音楽におぼれ、薬に頼る浄念が念願のコンサートを開く。
自分は何者なのだろうと迷い続けた彼は演奏中、「おまえはそのままで正しい」 という神の啓示を受け、恍惚となる。
彼の揺れ動く思いを知り尽くしている妻は、演奏を聴きながら 「ないがまま、ないがまま」と念じる。

宗久さんはいう(朝日新聞(福島版) 2002年4月5日)。
――今の日本人は、そのまま、あるがままという言葉に縛られていやしませんか。
無数の自分があるという意味で、連続した自分なんて本当はない。
だから、あるがままっていっても、どの自分か分からないんです――
自分は何者だと迷いながらも、〜わからないものはわからないままでいい〜、そう思いながら僧侶を務め、小説を書き続けた宗久さん。

2001年、第2作目の『中陰の花』で第125回芥川賞受賞を受賞した時、宗久さんは45歳でした。

私は昔、ある心の問題から、糸の切れた風船みたいにフワフワと生きていた。地に足がついていないみたいで生きている実感がなかった。中身からっぽの張子。魂の抜け殻。
自分は何者? 自分は人間? 人間かどうかも怪しい。せめて普通の人間になりたい。こんな自分が生きていてもいい? 
「何もできない」「役に立たない」「お前はいらない」「出来損ない」といわれ続けて、自分でもその通りだと思っている私でも、生きている価値がある?
「あるがままでいいんだよ」っていわれても、「ある」って何? 私には魂もない。
それでも、「おまえはそのままで正しい」といってくれる?
「ないがまま」でいてもいい?
私はずっと私を否定され続けてきた。
肯定されるって、こんなに楽なことなんだ。
2004年に、私はその呪縛から自力で脱出した。
やっと自分は人間になれたと思った。
あの「ないがまま」は、人生で初めて、私を肯定してくれた言葉だった。

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【更新日:12月23日】 【No.4投稿者:武井様、40才、埼玉県の男性

 嗜好品という文化を拝読しました。まず嗜好品と言う定義を広辞苑から引用されましたが、その定義に「毒物」は含まれていたでしょうか?。いま禁煙が叫ばれているのは、うまく嗜好品としてニコチンという刺激物をとれないことがわかってしまったからです。ちなみにニコチン自体も「毒物」に指定もされています。つまりこのような商品を売っている事自体が間違えだったと、世界中の科学者達のお墨付きを貰って禁煙運動がされているのです。また文化と言いますが、紙巻きたばこの文化は約100年しかありません。その前は葉巻、さらにその前はキセルであったと思われます。しかしそれらを含めても、アメリカ大陸を抜かせば約500年ほどです。アメリカ大陸の国々でさえ喫煙の文化は今は完全否定されています。尚、「毒物を取らない健康という文化」は何十億年も前からのものです。そして宗教の文化も同様に古くからあります。これらを一緒にし、「個人の自由」という言葉でくくってはいけないと思われます。永眠された人達も毒物をとっていたことも同様に供養を御願い出来たらと切に願います。

※嗜好品という文化 本文→

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【更新日:12月31日】 【No.3】投稿者:小林様、46才、広島県の男性

「混沌」について、もう少し考えてみました。
人類の営為が「色の創造(エントロピーの低減)」に注がれている様子は「教育」に似ていると思います。身近な例で言うと子供の教育です。
うちの息子は幼稚園年少の頃、毎朝目を覚ますたびに大声で泣き叫びながら母親の名を呼んでいました。目覚めたとき部屋が薄暗かったり誰もそばに居なかったことに恐怖を感じていたのでしょう。私は飛んで行って抱きしめてやりながら「怖くないよ」と教えてやったものです。
しかしある日シャキッとした顔で「おはよう」と起きてきました。(え?今日は泣き叫ばないのか!?)と目を白黒させながら息子の姿を眺めていたのですが、しばらくしてなるほどと思いました。これが「学習」なんだと。
人は生まれた時点では「混沌」なのだと思います。それが親や社会から教育を受け「秩序」を学習し「仕事」をする能力を身に付けます。またそうしてやる事が親の義務であり社会の意義だと思います。そしてその後は自然に任せて仕事をすれば良いのでしょう。何故ならば放っておいても(いや、放っておくからこそ)「秩序」は「混沌」へと向かうからです。
「混沌」が生まれたときの姿(すなわち本来の自分)であるならば、それを取り戻す際に成し遂げた仕事が素晴らしいものであろうことは容易に想像がつきます。
私自身(ちゃんと学習できているかどうかは分かりませんが)しっかりとした教育を与えて貰ったと感じています。そして流れに身を任せて仕事していこうと、ようやく思えてきました。

【更新日:10月17日】 【No.2】投稿者:齋能様、41才、静岡県の女性

県内で仏像が盗まれる事件が相次ぎ、古美術商がつかまりました。「御開帳綺譚」のようなことはもちろん一切なく、地域でお守りしてきた仏様をお金にするために盗み出し、かわりに「安物の」仏像に置き換えたとか。地域の人たちは仏様の帰りを待ちわびているでしょうが、かわりに置かれた「安物の」仏像はどうなるのか、仏像の価値とありがたさとは・・・なんてことを考えて、「安物の仏像」に少しさみしいような気がしてしまいました。

【更新日:9月7日】 【No.1】投稿者:苅田様、49才、東京都の男性

知るを楽しむNHK TV ”知るを楽しむ”を見ました、面白かったです。最終回で人生を”水を行く船とそれが起こすさざ波”に例えていましたが、わかりやすい例えだと思いました。そのように、全体(宇宙)と部分(個人)が相互作用しているということだと思います。人生の意味をより深く知ることができたのかもしれません、僕は、人生の意味を知るために今まで生きてきているといっても過言ではありません、感謝しています。
『知るを楽しむ』〜人生の歩き方〜「なりゆきを生きる」

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