5
5月8日

筍が出てきた。今年の筍は、雪が長く地面を覆っていたせいか、旨いという前評判だった。うちの竹藪の初物をきのう食べたが、確かに旨かった。しばらくすると、ご近所に配るのが忙しくなる。そしてまたしばらくすると、「まだ生えてくる」と嫌がりだし、食べるのにも配るのにも疲れて、ただ蹴り倒して歩く日々がくる。こうして書くと、なんて身勝手で、恒心のない態度だろうと思うのだが、こればかりは仕方がない。思えばそうして蹴り倒す作業も、竹藪の維持と、また来年美味しい初物を食べるためには必要なのだ。べつにこれはなんの喩えでもない。あまり深く考え、人生なんかと結びつけないでね。今のところ筍はまだ、とても美味しく感じられる。

4
4月30日

桜が終わるとなんとなくホッとする。終わるという言い方は適切じゃないだろう。桜とすれば展開しただけ。むしろ旺盛な生命力を今こそ感じる。萌え出る葉と、結実の準備。人間でいえば壮年期の風情だろう。そんな時期に、きのう、菊桃という花木を植えた。瑞々しく濃い紅色が、純情で濃密な少年や少女を思い起こさせる。しかしそんな魅力を感じるのは、明らかに中年の今。少年や少女の魅力は、おそらく中年期に概念化されるのだろう。菊桃の花色は、ハッとするほどに濃い。濃くてもいいのだと思えるのは、人生を深くても淡々と横切っていくスベを覚えた、中年期以降なのだと思う。加齢は本当に嬉しい。

4月16日

14日に、桜の最初の一輪が開きはじめた。情報通によると、開花から累積温度が80度になると、ほぼ満開だそうである。昨日も今日も12〜3度だったから、二日分では25度。つまりあと55度必要ということになる。明日は温かいというし、順当に考えればあと三日、だろうか。しかしこれも、満開では遅いという人々もいるから厄介だ。まぁインターネットが発達したお陰で、電話での問い合わせが激減したのは有難いことだ。しかしみんなが浮かれるこの時期、孤独な人は輪をかけて孤独を感じるようなので、浮かれながらもご用心。

4月2日

感想文をお寄せくださり、ありがとうございました。
本はいろんな環境、境遇で読まれるということの、怖さと有り難さをあらためて感じました。

さてどうやら春である。日本人は正月から春といい、旧正月でも節分でも、春だ春だと招きつづけているが、それがようやく、本格的に来たのだから嬉しい。もともと「めでたい」という言葉も「目出度い」ではなく「芽出たい」なのである。こうなると、本堂前に残っている雪も可愛らしい。すっかりしょげかえって汚れたまま、蹲っているのだが、「もう少しゆっくりしてったら」なんて、こちらも余裕が出てきた。
本当に人間は、いや、私は現金である。

ところで今月は、『サンショウウオの明るい禅』(海竜社)という本が出る。いったいぜんたいサンショウウオと禅がどう関係するのかと訝る方もいらっしゃるだろうが、まずは春の到来に免じてお許しいただきたい。サンショウウオの態度を「ゆらり」「てきぱき」「どっしり」「ふふふん」「ひょん」で分けると、これまで私の書いたものが不思議にそのどれかに収まるのだ。第2エッセイ集だが、とても気に入っている。今回の本も挿絵から表紙まで、『死んだらどうなるの?』に描いてくださった川口澄子さんにお世話になった。このサンショウウオの絵が、またいいのである。

3
3月13日

何年かまえにも、雪のためお彼岸のお墓参りができない年があった。今年はどうなるのか、ハラハラしている。一旦感じた春の温かさがあっただけに、戻り寒はことさらキツク感じる。まあしかし、天候くらいは何のこともない。お彼岸界隈にはいろいろ不穏なことも起きやすいようだ。イラクへの空爆開始も、オウム真理教による地下鉄サリン事件も、お彼岸の出来事だったのである。サリン事件から十年。今年は寒くてもいいから、穏やかなお彼岸であってほしいものだ。

2
2月23日

毎年この季節になると、「早春賦」は名曲だと思う。「春は名のみの風の寒さ」そのものである。しばらくかかっていた小説が脱稿。からだの力が抜けたせいか、寒さをひときわ感じる。しかし寒くとも、やはりこの感じは何物にもかえがたい。愉悦。なにかが内側から満ちてくるようだ。木の根もそろそろ水を吸い上げはじめるのだろう。雪に囲まれ、春を感じる今、床の間には「雪深くして百福兆す」が掛けてある。

1
1月27日

『死んだらどうなるの?』が出た。初めての試みだが、感想文を募集してみることにした。これまでしたことのないことをしてみようと思ったのは、べつに自信がない、というわけじゃない。そうではないが、こんな大胆なタイトルの本を出してしまうと、なんだか居心地が悪いのである。本はさまざまな状況の人に読んでいただける。それがありがたいのだが、逆にそれは怖いことでもある。どのような状況でこれを読み、どう思われたのか、それを知ることで、安堵したいのだと思う。私の居心地と安堵のため、なんて失礼な話だが、もしも腹が立ったというなら、それもぶつけていただいたらいい。
小説は、読後に霧のように立ちのぼるなにものかを味わっていただくことが一番だと思っている。国語の問題のように、それを分析することで霧を壊すのはどうかと思う。しかし今回の本は、本来霧のような問題を、私は言葉で扱ってしまったのである。最後にやはり何らかの霧がたつものかどうか、とても気になるのだ。どうか私を助けると思って、忌憚のない感想をお寄せいただきたい。

1月23日

 15日に降った雪は重くて大量だった。滝桜は直径20センチもある枝が何本も折れたようだ。うちは見たところそれほどの被害はなさそうだが、「あれ? この辺にツツジがあったはずだけど」という感じは今も続いている。雪が融けてみないと判らないが、灌木はかなり折れているだろう。このところ池の周囲には見たこともない鳥がたくさんやってくる。急にエサが獲れなくなった鳥たちが、普通じゃない動きをしているようだ。

1月12日

 易経の講習を受けてきた。講習会と呼ばれるものに生徒として参加するのは、交通違反のとき以来である。易の本質は「変易」「不易」そして「簡易」である。つまり変わり続ける現象のなかに不易なるものを見出し、不変と感じ、実体と思うものにも「変易」を見つめる。しかもそれを陰・陽という簡易な原理で示す。そういう世界観だ。
 今日は旧暦で12月3日、「地沢臨」。時刻でいえば真夜中だが、すでに下から陽気が上りつつある。ともすれば冷めかねない熱を志のように抱え、慎重に事を運ぶべし。はい、そうします。

1月8日

 例年のように、お正月の毛氈やお屠蘇の道具などを今日片づけた。雪に囲まれてはいるが、穏やかな日だった。床の間の掛け軸も雪村の達磨さんから「巌谷栽松(がんこくさいしょう)」に変えた。ふいに、ああ、後継者のことを考えなくては、と思った。「巌谷栽松」は『臨済録』の言葉で、そういう意味合いがあるのである。
 外に出て山門の周囲の溶けかけた氷をスコップでどかしながら、まぁなんとかなるだろうと、根拠もなく思った。無風で、薄日が射していた。

1月1日

新年あけましておめでとうございます。
 今年の干支は乙酉(きのととり)。去年の甲申(きのえさる)は何か新しい兆しが僅かに稲妻のように兆した年だったが、今年もその兆しは伸びる。ただ外圧がまだ強く、ともすれば真っ直ぐに伸びられない、という形が「乙」である。また「酉」というのは元々酒を醸成するカメのこと。慎重に、新しい芽が育つようにじっくり構えよう、ということだろう。
 問題は、新しい芽とは何か、ということだが、私としてはたぶんそれは「縁起」だろうと思っている。『リーラ』という小説がそれをテーマにしていたわけだが、因果律を超えた世界のうねりをなんとか捉えたい、という欲求は、その後もずっと育っている。因果律以外を重視する方向は、今の世の中ではきっと外圧に遇うだろうとも思う。
 それならどうすればいいのか、ということだが、焦りは禁物。酉というカメのなかでじっくり酒を醸成するように、私もいろんな方面から「縁起」にアプローチしてみたい。
 どういうわけか、今の私に浮かんでくるのは植物、そして『易経』である。
 ユングは「易は常に現在以上のものを見せてくれる」と言ったが、因果という思考法を獲得する以前の植物にも、「縁起」をひもとくヒントがあるような気がする。植物、というのは、つまり植物の感受性のことだ。五感以前の、なにか根源的知覚が植物にはあり、それが動物、人間と進化するに従って退化したのではないか。
 なんだかまた胡散臭いことを考えている。
 胡散臭い、愉しい年になりそうである。
2005年 元旦

2009年からの雪月花へ

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