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9月29日

「彼岸花はまだ咲かない」と書いた翌日、彼岸花が咲いた。ちゃんとお彼岸中に咲いたのである。驚いたことに、東京や関西からも、同じ頃彼岸花が咲いたというメイルをいただいた。27日に群馬県に出かけたが、そこでも満開だったし、岩手県でも満開らしい。桜なら南から北上しながら咲くのに、あの花の場合は全国一斉である。ほかにこんな花があるのだろうか。全国一斉に、ということは、あの花は温度や日照時間に感応して花開くわけではないということだ。それなら何に感応して開花するのだろう。答えをご存じの方は教えてください。

9月21日

彼岸花はまだ咲かないが、お彼岸である。久しぶりの顔を、境内や墓地で多く見かける。まだ暑く、ノウゼンカヅラの花も残っているのに、空は急に高くなった。コスモスや秋明菊も咲きだした。なんとなく過渡期である。思えばしかしすべての季節は過渡期。人の生も、いつだって過渡期なのだろう。特定の時期を過渡期とみなせる人生は、幸せかもしれない。エポックに挟まれた時を過渡期と云うのだから。お彼岸は、そういえば典型的な過渡期。それを感じるために設けられたのかもしれない。「過渡」とは「無常」の別名である。

9月17日

写真家・坂本真典さんの写真展が15日から紀伊国屋画廊(新宿紀伊国屋書店4F)で始まった。朝の5時まえに開く蓮の花の写真を撮るには、4時まえから現場に待機していることも多かったそうだ。いったい彼は、なにゆえそこまで不忍池の蓮にこだわったのか、それは謎である。しかし彼のその執念に、蓮たちは格別な表情を見せることで応えてくれていると思う。空前の蓮の写真展に、是非お出かけになってみてほしい。やわらかで温かい静謐が、体験できるはずである。

9月3日

日没が際だって早くなった。まさにつるべ落としである。秋の夜長は読書、というなら、最近お勧めしたい本に出逢った。頼まれもしないのに書評めいたものを書いてしまったので読んでみていただきたい。 むろん書評だけじゃなく、その本を、である。「人生」などと云う言葉には、なぜか秋が似合う。この部屋からは人の声など聞こえず、蟋蟀の声だけが聞こえるのに……。
『隻手の音なき声 barドイツ人女性の参禅記』本文→

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8月16日

ようやくお盆の山を越えた。お墓を歩いてみると、今年はにわか雨がちょくちょくあったため、供えられた花がまだ萎れていない。そんなことを思いながら、卒塔婆を頼んだのに来られなかった家のモノを持ってお墓を歩いていると、急に地面が揺れだした。なかなか止まないどころか揺れは次第に激しくなる。墓石も揺れているのがわかった。幸い、墓石がズレるほどのこともなく収まったが、あちこちからご心配の電話やメイルを頂いた。ドイツからの電話には驚いた。どうも向こうのニュースでも報道されたらしい。たいして被害もないから、逆に人々のネットワークを感じる送り盆であった。今晩は、全国あちこちで送り火が焚かれるのだろう。べつにそれはネットワークというわけじゃないが、ついそう思ってしまう、美しい風習である。

8月5日

このところ、炎熱の日々が続いている。しかし池の鯉の食欲が落ちるほどではない。毎朝エサをやると、大小さまざまな鯉が元気に群がってきてパコパコ口を開く。オニヤンマも今年は多い気がする。家の中まで入ってきて、お茶を飲む私の顔の横の中空に、佇んだりする。コガネムシ、カミキリ、クワガタ、トンボ、暑くとも元気な虫がたくさんいる。やけに鯉や虫たちが気になるのは、お盆が近いせいか。お盆には地獄の釜のフタも開くというけれど、坊さんたちは地獄の釜のなかに入っていく気分だろう。私も元気な鯉や虫たちで、自分を鼓舞しているのかもしれない。お盆が8月の和尚さんたち、今年も張り切ってお盆を乗り越えましょう。

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7月25日

富山市から立山に行ってきた。350メートルという日本一の落差を誇る「称名の滝」は幽邃(ゆうすい)な瀑布である。古人はその上流に浄土を想像し、下流には豊かすぎるほどの地獄を想定してきた。ちょうど博物館で立山独特の「地獄曼荼羅図」の展示がなされており、そこも解説つきで拝見できた。実際は今日からオープンだから、興味がある方はお出かけになることをお勧めする。そして帰りには、富山湾にしかいない「白エビ」と岩がきがお勧めである。白エビは別名「海の乙女」。じつになんとも白く甘く、美味しいのだ。坊主がこんなこと言ってると、地獄に堕ちる?

7月19日

テント暮らしの風来坊が現れた。しかも夫婦である。なんでも仕事を手伝うので、今晩はお墓の一角にテントを張らせてほしいといってきたのである。私もお墓はあまり怖くはないが、しかしそこにテントを張ろうとまでは思わない。今年の盛夏の訪れを告げたのは、彼らだったのだろうか。いったいどんな夏になるのか、少々不安でもある。急に暑くなってきた。

7月12日

梅雨空の下を、山繭からかえった蛾が飛んでいる。蝶を意味するギリシャ語の「プシュケ」が、同時に「いのち」や「魂」をも意味したのが、なんとなくその飛び方を見ていると納得できるようにも思う。根気づよく見ていても、どうにも規則性が感じられないその様子に、ふとなにか大きな存在を感じるのだろう。ホメロスはそれを「呼吸」の意味に用いた。そういえばあの動き、誰かの呼吸で揺れているようにも見える。

7月2日

しっとりと湿潤な日々が続いている。本人が乾いてきたせいだろうか、こういう天気が嫌じゃない。もともと、人間は裸で過ごすぶんには湿度80%くらいがいいのだと読んだ記憶がある。もっと乾燥した空気を求めるのは、ひとえに服を着ているせいだ、と。この状況を喜んでいるらしいのが、今年初めてうちの池にやってきた牛蛙である。姿はまだ見ていないが、だんだん声が太くなってくる。メスもいるらしく、少し音程の高い声で応じている。それにしても彼らは、山から来たのだろうか。子供の頃から、うちの池で牛蛙が啼いたためしはないのに……。今年は牛蛙元年、って、いったいどんな年?

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6月15日

雨によく似合う花に山法師と夏椿がある。不思議なことに両方とも、雨のときのほうが風情が増すように思える。またこれも不思議だが、どちらも殆んど剪定の必要がないのである。放っておいても自然に樹型が整う。それが、いかにも涼しい。うちの辺りでは今が山法師の盛り。夏椿はまだ咲かない。山法師の白い花と見えるのはじつは花ではなく、「総包片」というらしい。本当の花は中央に集まる多数の緑色の球体である。なんだか植物事典の解説めいてきた。今年は境内に、この木を植えようかと思う。4月に植えた菊桃には三個の実がつき、雨にうぶ毛を光らせている。

6月2日

あれよあれよという間に、タケノコもほぼ終わってしまった。今は庭木の枝が、ぐんぐん伸びてくる。造園用語では「徒長枝」という。いたずらに長くなる、というわけだ。「いたずらに」なんて、むろんこっちの勝手な判断だが、こちらも対抗して「いたずらに」剪ったりする。まぁしかし、人と植物が一対一で向き合っている分には大したことは起きない。お互いに許しあえる範囲だろう。「しぶとい奴め」なんて思いながら、お互い苦笑いなど浮かべるのだ。なんだか今年は、山の木々と少し深いつきあいをしてみようかと思う。

2009年からの雪月花へ

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