7
7月12日

新潮新書『貝と羊の中国人』を読んだ。非常に面白かった。著者は加藤徹氏という気鋭の学者である。貝と羊がいったい何を意味するのかを知っただけでも、中国を視る新たな視点をいただくようなものだろう。だからその意味は、ここでは書かないでおく。この本を読めば、日本バッシングや靖国問題も、一段深い眼で見ることが可能になると思う。私も一応中国文学科ではあったのだが、とてもスッキリした。加藤氏に感謝したい。

6
6月18日

梅雨である。それなのに、なぜか皐月が咲いている。いったいどうしたことか。躑躅と皐月の開花がこれほど違うというのも珍しい。また今年は、梅がやたらと遅く、桜はそれほどじゃなかった。桐の花と藤の花が一緒に見られるのも珍しい。それぞれに開花条件は違うのだろうが、なんか変な年、という感じがする。旧暦では、今年は閏7月がある。こんな年は、昔は冷夏に悩まされることが多かったようだ。ご用心。ご用心。

5
5月28日

友人の伊藤彰規氏が本を出した。一年間滞在していたパリの周辺、そして故郷の北見が、同じ青のイメージでメビウスの輪のように繋がるという。前進と回帰とが、静かな文章のなかで不思議な化学反応のように同時に起こっている。彼の眼を通した世界は、はしゃぐこともなく、怯えや怒りからも遙かに遠い。世界は浸るべき美しい時間なのだと再び思わせてくれる。再び? 最初はいつか、、、。それを憶いだすために、一読をお勧めしたい。
『北見、そしてパリの青』についてb3

5月10日

あれよあれよという間に新緑の季節である。もう田植えが済んだところも多いのかもしれないが、農業試験場などの話だと、今年は田植えを遅らせたほうがいいらしい。
うちの辺りの最近の気候からすると納得してしまうのだが、どうも今年は地温が上がるのが遅いらしいのである。こんな季節になると、宮澤賢治もきっと忙しかったのだろうと思う。いや、肥料設計は一段落して、ほっとしている頃だろうか。私も「慈悲をめぐる心象スケッチ」最後の原稿を書き終え、ほっとしている。

063
4月25日

桜もようやく満開になった。満開になるとほっとするのは何故だろう。なんだかうまく説明できないが、ほっとしている今日この頃である。ところで話は違うが、私の友人が面白い本を出した。『「しぐさ」に隠された日本人の心』というのだが、これがあくまでも実践的でタメになる。著者は村尚也(むらなおや)という舞踊評論家になっているが、じつは彼、坂東鼓登治(ばんどうことじ)さんという坂東流のおどりのお師匠さん。「2010年おどりの空間」という革新的おどり集団の主宰者でもある。日本人のしぐさや心の繊細さ、豊かさを、この本で認識していただけたら嬉しい。日本人であることに自信を持ち直す一冊としてお勧めしたい。
『「しぐさ」に隠された日本人の心』について b3

4月17日

瓦の上に被さるように伸びた染井吉野の枝先だけに、ようやく20輪ほどの花が開いた。まだそんな状態なのに花見客は大型バスに乗って訪れはじめた。バスツアーの計画は前もって組むからこれはバクチに近い。はずれた人は可哀相だが、胴元である観光会社はどんなお詫びをするのだろう。ガイドさんの口先にかかっているなら、彼女たちも大変だ。しかしコントロールできない自然を感じるのは小気味良い。不機嫌な客にも上機嫌な客にも、風は同じように吹く。

4月8日

今日はお釈迦さまの誕生日。穏やかな朝、楞厳呪をあげて甘茶をいただいた。今年は甘茶が品薄、去年がずいぶん不作だったらしい。それにしてもお釈迦さまが生まれたときに降ったとされる「甘露(アムリタ)の法雨」、よほど嬉しくて、雨までが甘く感じられたのだろうか。桜の花はまだ色づかないが、ひときわ春を感じる味覚である。

063
3月20日

一旦温かくなり、からだが緩んできたせいだろう、少し寒が戻っただけで非常に寒く感じる。春に向かうときには苦いものを食べるとからだが緩んでいいと云われるから、もう何度かフキノトウも食べた。そのせいで、なおさら寒いのだろうか。
今日はお彼岸でお墓でのお経があり、強風でお線香も危険な感じだったが、お経をあげながら皆の髪が風で乱れるのが見えた。お経を終えるとある人が言った。「和尚さんは髪が乱れなくていいですね」。そりゃそうだが、寒さは一入なのだ。私は即座に答えた。「そう思って、剃ってきたんですよ」。べつに、怒っちゃいない。

3月12日

昨日は仙台まで出かけたのだが、久しぶりに清々しい女性コーラスの声で、「犬のおまわりさん」を聞いた。「困ってしまってワンワンワワン」というのが可愛らしく、とても懐かしかった。そういえば「ぞうさん」という歌を作詞したまどみちおさんは今も95歳でご健在である。この象さんのお鼻が長いわけ。「そうよ、母さんも長いのよ」というのも凄い。こういう歌が作れるというのは、最近とても尊敬しているのである。いや、べつに、作詞がしたい、というわけではない。

062
2月17日

去年も「春は名のみの」と書いたと思うが、今年もそういう季節である。梅の花芽がまだまだちじこまっている。しかしそれにしては桃の花芽はもうかなり膨らみ、まるで梅を抜きそうな勢いを感じさせる。今年は春が一気に来そうな、そんな気がする。境内にはあちこち雪が残り、寒風にさんざめく竹藪が、ガラス越しに大きな胎動を感じさせる。なあんて部屋の中で見ていたら、郵便屋さんがバイクでやってきた。寒そ。

061
1月29日

先日お知らせした102歳のお婆ちゃんがとうとう亡くなってしまった。お昼ごはんを充分食べたあと、「ああ、うまかった!」というのが最後の言葉になった。その2時間後の静かな旅立ちであった。なんだかこうなると「老衰」という言葉も似合わない。老衰というと、どうも最後は水だけしか入らないというイメージなのだ。「うまかった」という言葉が、まるで人生そのものへの感想にも聞こえる。遺影の笑顔の両側には、お寺の境内の桜の花が可憐に咲いている。

1月14日

このところ、お葬式が多かった。12月31日から1月7日まではお葬式をしないため、その間に亡くなった方の葬儀が続いたのである。去年も申し上げたような気がするが、やはりお風呂で亡くなる方が多い。なかには石鹸に足を滑らせた方もいる。死因はたいてい心筋梗塞である。今年は寒い。山中湖も22年ぶりに結氷したらしい。
自分が入る風呂にはまだ暖房は入れていないのだが、どうかお風呂に緩い暖房を入れていただきたいと、切に念ずる今日この頃である。

1月1日

 新年明けましておめでとうございます。
 今年は丙戌(ひのえ・いぬ)。例によって今年一年を見るための「仮想」を示そうと思う。『脳と仮想』は一昨年の茂木健一郎さんの著書だが、それに拠るまでもなく、我々は仮想によって世界を見ている生き物だからである。
 丙は火の兄。丙は「あきらか」とも読む。つまり草木が地上に出て伸張し、その姿が明らかになった状態で、その盛んなエネルギーを意味する。
 一方の戌はもともと「茂(しげる)」という字に「一」を加えたもので、やはり万物の熟する時節を意味する。季節で云えば旧暦の9月、つまり、紅葉そして実りの季節なのである。
 ではいったい明らかになって結実しようとするのは何なのか、それが問題だ。
 そこで「戌」の意味をもう一度考えてみると、この字には「誠」や「温気」、また「鮮(うつくし)」や「恤(あわれみ)」という意味がある。
 あまりに残酷な出来事や悲惨な戦争が続いたために、ようやく人の心の底にあった「誠」や「温気」が表面に現れ、恤(あわれみ)の心が実ると捉えたいのだが、如何だろうか。
 多くの血が流れてようやく殺生を恤(あわれ)む心が生まれるわけだが、それは同時に鮮(うつく)しい心とも云われるのである。
 たまたま前回の丙戌は1946年。つまり第二次世界大戦の終結の翌年である。
 たくさんの血に辟易した人々の多くは、一心に仕事に専念し、いわゆる高度経済成長を成し遂げてきた。しかし今回の丙戌はひと味違ってほしい。いや、違わざるを得ないだろう。
 季節の変わり目には、それまで着々と準備されてきたものが一気に吹き出すように現れる。恤(あわれみ)の心も、今まで眠っていたようだがちゃんと活動し、最悪の環境のなかで夏の茂りも経験してきたのである。
 犬は古来人間に最も親しまれてきた温和な動物。
 私など、見習いたいと思う点が幾つもある。
 たしかに凶暴になってしまった野犬は手に負えないものだし、最近の子供たちに向けた凶悪な犯罪には野犬を想わせる凶暴さを感じる。しかし、野犬から身を守るために子供たちを檻に入れるというのはあまり賢いとは思えない。
 恤(あわれみ)の手始めは、野犬との対話から始めなくてはならないのかもしれない。

 なんだか年頭の挨拶としては、ちょっと深刻になってしまったが、今年も縁起はいいに決まっている。
 今年は少し、小説に力を入れたい。
2006年1月1日 玄侑宗久 拝


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