「わが屍は野に捨てよ-一遍遊行」解説

すさまじき遊行の迫力

 この本は、まるごと一遍上人の一生である。俗世での生い立ちや成長はむろんのことだが、念仏者として自身の教義を確立していく過程も、リアルに追体験できる。編年で書かれているのは、著者の誠実なのだろう。筆を遊ばせぬ確かな素描は、むしろ彫刻の鑿(のみ)さばきを想(おも)わせる。人はこんなにも変化でき、しかも変化できないものであることが、野に吹く秋の風のように身に沁(し)みる小説である。
 一遍上人の魅力は、やはり一度還俗(げんぞく)したことにあるだろう。
 出家して寺にでも入ってみればわかるが、女人禁制の暮らしは、慣れればさほど苦しいものではない。起こる欲求を我慢するのではなく、起こらない状況を維持するからである。それは、捨ててきた現実の暮らしを想うとき、逃げとさえ思えてくるはずである。
 源平の争乱で河野(こうの)水軍の将として名を馳(は)せた河野家に生まれた幼名松寿丸。河野通尚(みちなお)こと後の一遍にも、一時そうした出家生活が逃げに思えた。彼が生まれたのは承久(じようきゆう)の乱(一二二一年)から十八年後だが、父親の思惑もあり、十二歳から二十五歳までは寺で暮らしたものの、父の死をきっかけに別府(べふ)の里に帰る。父亡きあと、兄が何者かに斬(き)りつけられ、親族にさえ妖(あや)しい空気が流れていたその時、寺に戻ることは一遍に流れる武門の血が許さなかったのである。
 髭(ひげ)をたくわえ武士となった一遍は、結婚して子も設ける。それどころか、隣接する荘園領主の横暴に敢然と交渉に出向いた彼は、そこの歌い女(め)を手土産にもらいうけ、二人目の妻として屋敷内の一棟に住まわせる。むろんそちらにも子ができ、どっぷりと世俗的に、小さな領主としての生活に浸るのである。
 そんな男を再び出家させるきっかけは、自分を襲った賊の一人を斬って死なせた事件、しかも斬った相手が、腹違いの弟に仕える郎党……。佐江氏は、それまでに丹念に、一遍の人並みでない性欲について描いている。十五歳の性夢、また聖達(しょうだつ)上人のもとで修行していた頃、博多の巷(ちまた)で経験した遊女は馴染(なじ)みの小春ばかりではない。しかもそこには、十歳のときに死別した母親の面影まで重なる。
 このあたり、一遍が再出家へと向かう道筋をつける佐江氏の手つきは、まるで囲碁の名人のようでもある。将軍家や天皇家および社会情勢の激しい変化にも触れ、法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)、さらには日蓮(にちれん)の動きも配し、親族の不穏な空気や家庭内のことまで、冷静に遠巻きに布石していく。じれったくて真似(まね)のできない作業だが、しかしこれによって一遍の大きな決心が、こうした縁起のなかでの流れだと、おそらく読者は自然に納得するのだろう。
 聞くところによると佐江氏は、五十歳で始めた剣道が現在五段の腕前だそうだ。碁に喩(たと)えるより、むしろ正眼に構えたまま敵を追いつめる剣士の、静かな迫力かもしれない。むろん追いつめられるのは一遍だが、彼もかなりの手練(てだ)れ。二人の拮抗(きっこう)する力は、そのまま一遍のなかの心の葛藤(かっとう)に転移するようだ。二人の妻と、血をわけた二人の娘への愛着、そしてそれゆえにこそ昂(たか)まる「捨てる」覚悟、念仏勧進の弘道(ぐどう)への決心。
 それにしても、にっちもさっちもいかない一遍のその状況は、ある意味では釈尊以上とも云(い)える。一番弟子であった摩訶迦葉(まかかしょう)は妻と共に出家し、一生を托鉢(たくはつ)暮らしの旅に送ろうとしたが、それに似た拘(こだわ)りが一遍にもあったのではないだろうか。
 定住したほうが弟子の養成には便利だ。だからいくつかの精舎の寄進を申し出られた釈尊は、最終的にそれを受けた。その釈尊に、反対したのが摩訶迦葉であったわけだが、一遍もそれに与(くみ)する考え方をもっていたようだ。事実京都の桂川(かつらがわ)ちかくで一遍に帰依したある大臣が寺の建立を申し出たらしいが、一遍はにべもなく断って遊行(ゆぎょう)に出てしまう。
 一遍にとっては、定住することだけでなく、「衣食住の三(みつ)は三悪道なり」となってしまう。「衣装を求めかざるは畜生道の業(ごう)なり。食物(じきもつ)を貪求(とんぐ)するは餓鬼道の業なり。住所をかまへるは地獄道の業なり」。男女の性愛については確かに釈尊も異常なまでの拘りを見せたが、一遍はそれだけでなく、あらゆる所有を拒絶するのだ。だから彼の選んだ行は、念仏そのものでもなく、それを一所で勧進することでもなく、勧進し、弘道する遊行そのものになった。すべてを捨てて遊行する「捨聖(すてひじり)」と呼ばれる所以(ゆえん)である。
 むろんそんな遊行に、家族を連れて歩くなど、ふつうは考えられない。家族は所有ではないと思うのは甘い。一緒にいれば恩愛にしろ支配欲にしろ、さまざまな情緒を所有してしまうのが我々である。そんな生活を抱えたままに旅をするのはカタツムリか旅芸人くらいだろう。旅芸人は普通に生活すればいいのだから問題はない。カタツムリは雌雄同体だからさほど苦しくもなかろう。しかし一遍のように、生身を抱えて生活しながら修行するなんて、おそらくどんな宗教家も選ばなかった道ではないだろうか。
 一人で旅立とうとする一遍に、二人目の妻であった綾(あや)が言うのだ。
「こたびもおのれから逃げて、易(やす)き道をお選びです」
 なんと厳しい言葉だろう。そうして綾は超一坊となって子供ともども同道し、やがて一遍の遊行に得意の「おどり」を付加することになるのだが、そんな結果がこのとき予測できるはずもない。妻のこうした言葉に、一遍ほど誠実に応じた宗教家がかつていただろうか。初めにも書いたように、僧侶の不淫(ふいん)戒は欲求を未然に防いでいるからこそ守れるのである。いつ欲求が起こっても不思議でない境遇のなかでそれを押し通すのは、誠実など通り越して無謀なことでさえある。
 当然のことながら、それはすさまじい旅である。そのすさまじき遊行を、佐江氏の筆はじつに淡々と綴(つづ)る。抑制された筆だからこそ、読者には一遍や超一坊の呻(うめ)きや息づかいが、かえって強く聞こえてくるのだろう。
 長野善光寺の二河白道図(にがびやくどうず)との出逢(であ)い、念仏札を衆生(しゆじよう)に配る「賦算(ふさん)」の思いつき、そうして熊野(くまの)では、誰彼なく優しく振る舞う夫一遍への超一坊の嫉妬(しっと)など、佐江氏の筆は淡々としているばかりじゃなく、丹念で繊細でもある。そしてさらに信不信を選ばず、浄不浄を嫌わぬ賦算への発展、一遍号の由来、「決定(けつじよう)往生六十万人」の決意と、念仏信仰の深まりが描かれ、一方ではまた集団としての一遍時宗の春秋が、ややこしさも含めて描かれていく。最終的には男女ほぼ半々の一行だったというのだから、ややこしさは想像も含めて切実に感じられるのである。
 私はいつしか一遍時宗の道時衆に加わり、一緒に遊行しているつもりの自分に気づいた。
 宗教的な思考や行の深まりも、まるで一遍と共に深めていけるような錯覚を覚えるのである。一遍自身の詠(よ)んだ歌や御詠歌、漢詩などもそこには配されるから、追体験感覚はさらに深まる。
 それにしても、遊行中、いったい何人の弟子たちが念仏往生を遂げるだろう。迫害、飢餓、困憊(こんばい)、理由はむろん錯綜(さくそう)している。東国で山賊に二人の尼が連れ去られてしまう事件も描かれるが、あれは私が住むこの地から遠くない場所ではないか。私は妙な責任を感じつつ読んだのだが、そこには彼女たちの念仏往生を信じ、元武士としての生き方をすっかり捨てた一遍が描かれる。剣道五段の佐江氏も、あそこは苦渋を忍んで書いたのではないだろうか。
 衣装にかまわず、食べものにも執着せず、何より野宿の多い一遍時衆のおどり念仏は、時には七日に亘(わた)る絶食のなかで続けられたという。時宗の名が示すとおり、そこでは一瞬一瞬に生まれては往生することが繰り返される。しかしそうではあっても、たとえ宗教的理念があったとしても、そこまで人が狂乱することは、丹念な状況描写がなければ納得できることではないだろう。
 むろん、命をかけた「おどり念仏」の切実さとその恍惚(こうこつ)は、充分に納得できたわけではない。しかし用心深く読み返すと、納得するための材料は佐江氏が充分に用意してくださっていると思う。あとは一遍の苦悩や愉楽を、どれだけ自分のものとして拾えるかだろう。
 思えば我々禅僧が、七日間眠らずに坐禅(ざぜん)することだってかなりエキセントリックなことだ。私としては、佐江氏が最後のほうで触れられている紀州由良の法燈(ほっとう)国師への参禅が、一遍の教義にもかなり影響していると考えている。

 となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)なむあみだ仏

そう一遍は詠み、また『一遍上人語録』には「自力他力は初門のことなり」「念仏が念仏申すなり」また「自他の位を打ち捨てて唯(ただ)一念、仏になるを他力といふなり」ともある。これはどれも禅僧の言葉としても聞けるものだ。一遍は法燈国師から「悟り」の証明である印可証も受けたと云われるのである。
 後に白隠禅師は一遍のこの歌を本歌取りして揶揄(やゆ)するように詠(うた)う。

となへねば仏もわれもなかりけりそれこそそれよ南無阿弥陀仏

 称(とな)える行為そのもので、「われ」が出来てしまうじゃないかというわけだが、おそらく一遍は、そんなことは承知で、しかし六字名号そのものを本尊として称えつづけた。称えることに没頭し、さらに踊り、賦算を配るという「よすが」を設けることでようやく「仏もわれもな」くなる人々を、一遍は愛したからだろう。そしてその熱狂を支える人々の苦悩を、一遍はよく知っていたのだ。
 べつに私は、臨済宗から時宗に鞍替(くらが)えしようというんじゃない。ただこの本で、生身の一遍に出逢えた気がして嬉(うれ)しいのである。
 自力も他力もないじゃないか。たしかにそうだが、そうじゃけれども、そうじゃけれども、という見方がやはりある。佳(よ)い小説とは、おそらくこの「そうじゃけれども」の眼で書かれるのだろう。
 まだお会いしたことはないが、佐江氏の両の眼が、剣道の面の金具の間から睨(にら)んでいるようだ。私は三段だし、もう二十年以上も剣道はしていない。最近また素振りを始めたが、まったく相手にもならないだろう。じりじりと正眼で迫られるまえに申し上げてしまおう。
 「まいりました!」

2005/1/28 新潮文庫掲載

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