うゐの奥山 第6回

人権、この厄介なるもの

 人権とはいったい何だろう。犬や猫には寡聞にして「犬権」や「猫権」があると聞いたことはないが、人間だけにはこの特別な権利が認められているらしい。
 最近はタバコを嫌う権利が「嫌煙権」として正式に認められたかに見える。「喫煙権」は風前の灯火だが、これはお互いに尊重し合って共生、というわけにはいかないのだろうか。たぶん「嫌う」という権利が認められた以上、それに伴う優劣や是非という個人的判断まで肯定されるに違いない。それも含めて権利として認められた気になるのではないだろうか。
 最近のネット上では「嫌犬権」という権利が取り沙汰されている。愛犬家が聞けば驚くだろうが、世の中にはそれほど犬が苦手な人もいるというだけでなく、そこには愛犬家への憎しみさえ絡んでくる。それは深読みすれば、犬を愛する人を犬と同時に憎む権利なのである。
 今のところ、まだ「嫌犬権」は認められていない。犬猫などのペットを飼うことが「公共の福祉に反する」とは思われていないからだが、これとて今後どう変化するかわからない。タバコだって風邪の予防薬として珍重された時代もあったのである。
 犬でもタバコでも、それを「好む」ことと「嫌う」ことは対語のように見えるが、じつは相当に違う。「好む」側は「嫌う」側を余程でなければ嫌わないのに対し、「嫌う」側は常に「好む」人々への弾劾の気分を伴う。そして嫌うのに努力は不要である。
 さまざまな人権を発生させる日本国憲法第十三条を見てみよう。 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追及に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
 なるほど大切なことのように聞こえるが、幸福追求が欲望にならないか、また「公共の福祉」の基準とは何なのかが大問題である。
 東日本大震災による原発事故以後、福島県民の多くは放射能を嫌う権利を問題にしたいと思っている。「嫌煙権」が認められるなら、基地の騒音や放射能を嫌う権利だって当然認められるはずではないか。
 しかしそうしないのは、「嫌う権利」ではなにも解決しないことを知っているからだろう。中間貯蔵施設が決まらないのも、瓦礫処理に反対運動が起こるのも、みな「嫌う権利」のせいだ。
 権利は義務とセットであることも、忘れてはならないだろう。「嫌う権利」そのものが「公共の福祉」を脅かすことも充分あり得る。
 人権は厄介である。「嫌う権利」はなおさら厄介だ。困ったときだけ国家にお借りする金看板のようで、どうも好きになれない言葉なのである。

2012/09/30 東京新聞ほか掲載

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