うゐの奥山 第9回

風邪の効用

 たまには風邪も引いたほうがいいと、『風邪の効用』(ちくま文庫)を説いたのは野口晴哉(はるちか)氏だった。氏は十二歳で関東大震災に遭遇し、このとき本能的に手をかざして治療した経験から治療家をめざし、やがて野口整体と呼ばれる独特の整体法を完成させた。が、ここで申し上げたいのはそんな大層な話ではない。要は風邪を引くと『風邪の効用』を憶いだす、それだけのことである。
 せっかく引いたのだから効用を考えたい、という逞しい発想だが、じつは風邪を引くのは、内心で引いてもいいと、気を許した結果なのではないか、そんな気がする。数年ぶりで今回はいったい何に気を許したのか、と考えると、金沢での夢のような時間が蘇る。
 十月に金沢の「鈴木大拙館」で開館一周年記念の催しがあり、参加したのだが、たまたまそのまえに京都での講演があって金沢入りまで中一日あいた。じつにいい温泉宿があるというので、一日早く金沢入りしたのはよかったが、深谷(ふかたに)温泉の石屋旅館という宿がなんとも気を許させる宿なのだ。まず行基菩薩が発見したというそのお湯が凄い。地中に堆積した植物から沁みだすというお湯は琥珀色、いや酸化してむしろ黒に近い。北海道にも同じようなお湯があるというが、私は初めてだった。初めて、というのはやはり嵌るものだ。昼日中(ひるひなか)からいったい何度入ったことだろう。しかも食事がまた旨い。器も美しいし、酒もいろいろ揃っている。仲居役の新人青年がまた好ましいのだ。
 極め付きは石屋さんの会長さんである九十六歳の妙好人(みょうこうにん)である。妙好人というのは鈴木大拙翁の著書に描かれるが、いわば浄土真宗ならではの確たる信仰をもつ市井の生活者である。
 店の歴史や宝物の解説を聞き、二つもある能舞台を案内していただき、またご本人が子供の頃の校長先生のことまで聞いているうちに、私はえもいわれぬ感動を味わった。そしてひょいと立ち上がった会長さんは突然私の前からすばやく走り去り、やがて「お風呂、入ってください」と女房と二人分のタオルを持ってきてくださったのである。
 翌朝、ご本人から「昨日は熱があってぼ~っとしてて失礼しました」と弁明された私の驚愕を想像してみてほしい。あなたは三十八度六分の熱があってなおかつ疾駆する九十六歳をご存じだろうか。
 私は温泉や料理やお酒ですっかり油断し、気を許した状態で、なんと疾駆する九十六歳の妙好人を見てしまったのである。これは風邪が感染(うつ)ったなどというセコイ話ではない。内心、そのときの私はそれを望んでさえいたに違いないのだ。
 さほど症状も出ないまま、「大拙館」での講演・シンポジウムは無事に終わったが、寺に戻った翌日に私は寝込んでしまった。
 数年ぶりの風邪の効用は、今のところ何だったのかまだよく分からない。ただ快癒した今も、会長さんの疾駆する姿がしばしば瞼に浮かんで仕方ないのである。

2012/12/31 東京新聞ほか掲載

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