うゐの奥山 第10回

「聖域」のゆくえ

 この国の人々は、昔から両極端なものを併用するという変わった性癖をもっていたような気がする。
 中国製の漢字(真名)と創案した独自の仮名を両方使うのもその一例だが、仮名も平仮名だけでは済まず、片仮名を併用している。瞬時に音声に変換される仮名は音声言語、一方の漢字は絵として脳内で認識される。この双方を使う民族は世界的にも珍しいらしい。
 武家と貴族は、むろん今の世の中にはいないけれど、じつに永い間この国に存在しつづけた。ヨーロッパなどでは両者に区別はなく、貴族が騎士になる。そう考えると、武家と貴族が永く両立したことも、日本ならではの事態といえるだろう。
 庵や方丈など、コンパクトで無欲な生活形態が讃美される一方、日本人は勇壮な城郭建築も産みだしてきた。これは「わび」「さび」を愛しながら、一方で「伊達」や「バサラ」を産みだした心性にも関係しているのだろう。
 和様と唐様、意気と通、さらには義理と人情、本音と建て前など、日本人は何事も一本化せず、両極端の価値観を見据えながら暮らしてきたのである
 城郭に関わる人と、庵に住む人は、別人である。バサラと「わび」も両立はできない。そんなふうに、全体としては両極を含むけれど、個人としては片方を選び取る、あるいはどちらかに決まっているというケースもたしかにある。
 しかし義理と人情、本音と建て前のように、個人のなかで両方が常に鬩ぎ合うということも少なくない。義理も人情も、どちらか一つで生きることは不可能だし、どうやら日本人は本音だけでなく建前も必要だと考えているようだ。
 アメリカの民俗学者ルース・ベネディクトは、『菊と刀』のなかでそのような矛盾を描きだしてみせた。かそけき菊の命を育む心優しき人々が、それを一刀両断にする刀にも敬意を示すことが理解できないというのである。彼女は「全ての矛盾が、日本人にとっては縦糸と横糸になる」と皮肉るが、来日もせずに書かれた論考にそれほど感心する必要はない。どだい、矛盾がエネルギーを産みだすこの国の在り方を、彼女は浅薄にしか理解できなかったのである。
 現在、TPPが大きな問題を投げかけているが、これは全てを「聖域なく」アメリカの物差しで測ることに等しい。分野によってはメートルやグラムでは表せない尺貫法が必要とされるように、その国の独自性は「聖域」にこそある。それがベネディクトには理解できなかった文化の深みではないだろうか。
 「聖域なき」関税撤廃などという言葉が潔く聞こえるとしたら、それはどうかしている。人や国に聖域がなくなれば、そこに残るのは無味乾燥な数字だけである。

2013/01/31 東京新聞ほか掲載

トップへ戻ります