うゐの奥山 第15回

「手入れ」しつづける国

 自然の旺盛な生命力を感じる季節である。春先には芽吹きを「めでたい」と喜び、木々の新芽のさまざまな色合いを楽しんでいたのに、もはや「めでたい」どころではなくなってしまった。
 田圃や畑や境内からも、草が執拗に生えてくる。庭木からも徒長枝が伸びてくる。徒長枝とはよく言ったものだ。「いたずらに長くなる」枝だから、これは剪定するしかない。また境内の草も、できるかぎり根っこの先までイメージし、意識をその先の先まで拡げながら抜くことで根っこごと成仏させる。そんな作業を繰り返すしかないのである。
 思えば我々の髪の毛も、そのように手入れしつづけている。剃っても剃っても生えてくる髪の毛を、今はほぼ毎日のように根こそぎ剃っている。これも草引きや剪定と同じように思える。
 そういえば昔、やはり住職だった祖父が高齢になって剃髪が面倒になり、頭に卵の白身を塗って乾いた日本手ぬぐいで乾布摩擦のように擦っていたことを憶いだす。そうやって毛根を焼けばもう生えてこなくなると、誰かに聞いたようだった。どの程度の効果があったのかは覚えていないが、それも結局は途中でやめ、その後はおとなしく祖母に疎らな頭を任せていたような気がする。
 自然とつきあう際の基本的な態度がこの「手入れ」なのだし、これはもう仕方ないのだと、祖父も諦めたのではなかっただろうか。
 古代の日本人は、「毛」や「木」や「気」をすべて「け」と呼び、その自己増殖力を讃えた。抜いた「毛」から神が生まれ、「木」にも神が宿ると考えたのはそのような「むすび(産霊)」の力を感じたからである。
 こうした増殖力が枯れてしまうことを彼らは「けがれ」と呼んで最も嫌った。穢れるくらいなら、旺盛な産霊の力を枯らさないまま、手入れしながらつきあうしかない、ということだろう。
 おそらく日本人は、自然の増殖力を敬愛するがゆえに、そのような態度で自然と接しつづけてきたのではないだろうか。
 最近は、手入れが面倒だからと銀杏の葉は散るまえに枝ごと伐ってしまう。それどころか草が生えないようにコンクリートで塗り込めてしまう。そんなやり方をよく見かける。そこまで行くと、面倒を避けるため、恩恵まで拒否する態度だが、どうなのだろう?
 今、日本の沿岸部の防潮堤建設に、その問題が問われているような気がする。そして国が作った「国土強靱化計画」とは、海の厄介さを排除するために恵みも拒否せよと迫るものではないか。
 毛根を焼いて毛が生えない頭はすでに坊さんの頭ではない。同様に、高い防潮堤に覆われた日本は、瑞穂の国ではないのではないか。祖父の出来心は笑えても、こっちは笑えないのである。

2013/06/30 東京新聞ほか掲載

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