うゐの奥山 第18回

お彼岸とお盆

 お盆が済んだと思ったら、もうまもなく秋のお彼岸になる。私が僧侶だからそんな言い方になるのだろうが、二つの行事がすでに国民的行事であることは確かだろう。
 ただ、両方ともお墓参りの時期、くらいに考えている方が多いようだし、少しその本質的な意味を考えてみたい。
 昼と夜の時間が等しくなり、太陽が真東から出て真西に沈むのがお彼岸だが、これはもともと沈む夕日の彼方にあるという「浄土」を観想する日だった。
 特定のイメージを脳裏に強く想い描く「観想」は、試してみるとお分かりいただけると思うが、価値判断を全く離れた世界に入る。つまり、善悪、美醜、優劣など、ふだん誰もが気軽にしている「分別」が、ビジュアルイメージを追うことでできなくなるのである。
 そんな状態を仏教では「無分別」と呼び、そこには「無分別智」という智慧が発現するのだと考えている。そしてその状態で眺めた世界を「浄土」と呼ぶのである。
 一方、お盆は、表面上はお彼岸と違って死者たちがこの世に戻ってくるとされるが、その場合のこの世はいつものこの世ではない。
 俗に「地獄の釜のフタがあく」と言われるが、我々にとって普段は不都合なため無視あるいは抹殺している無数の命たちが、お盆中だけは解放されるのである。
 言うまでもなく、我々は通常「私の都合」を最優先してこの世に暮らしている。どんな命も対等だし尊い、だから殺生もしない、などと理想を言ってみても、各種ウィルスや菌、あるいは蚊やアブやハエ、スピロヘータやゴキブリなどに慈愛を注ぐのは、不可能だ。
 いや、それどころか、中国でお盆が始まる原因になったのは、どこの子も同じように可愛がればいいのに、それができずに我が子ばかり「えこひいき」してしまう人間の性への認識である。愛情に定量があり、あちらに注げばこちらの分が減ると思い込んだ目蓮尊者の母親が、「物惜しみ」の罪で餓鬼道に堕ちた。それを救おうと施餓鬼が始まるのだが、そこでは人間が、誰しも「えこひいき」を避けられない存在と考えられている。思えば死者も、日常の市民生活ではどこにも居場所がない。「私の都合」に合わない存在なのだ。だから死者も含め、いつもは顧みられない無数の命に期間限定で「博愛」を注ごう、というのがお盆の主旨なのである。
 死者も生者も、ハエもゴキブリも、となれば、これはもうお彼岸と同じ「無分別」の世界ではないか。
 じつはお盆もお彼岸も、たまには「私の都合」を離れ、「分別」を休むために設定された特別限定期間。でもこれを読んでも、またなにか「分別」してるんでしょうねぇ、きっと。

2013/09/30 東京新聞ほか掲載

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