うゐの奥山 第22回

清新の気

 もう二十五年ほど、元朝坐禅会を続けている。うちのお寺には昔から梵鐘がないため、除夜の行事の代わりに元朝の坐禅会をすることにしたのである。
 もともと元朝には、観音堂や本堂に仏に供える水(アカミズ)を供え、大般若経で祈祷をすることになっている。誰が来なくともそれだけはしなくてはならないから、どうせなら賑やかにしようと思って始めたことだ。
 元日の朝といっても、天候は一様でない。十二時と二時と四時に雪を掃いたこともあるし、駐車場が凍結していることもあった。風がないのが一番ありがたいが、そう願いどおりになるはずもない。
 しかし天候にかかわらず、五時から坐って落ち着いてくると、私は必ず五時半すぎには本堂の戸を全開することにしている。四時頃から焚いてあったストーブも、次々と消して廻る。
「清新の気を入れる」、と称しているのだが、常連にすればこの被虐的な時間がどうにも病みつきになるらしい。
 風がない年はまだいいが、強風が吹いていたら堪らない。いずれにしても堂内に淀みはじめた熱は一気に消え去り、そこは一瞬にして完全な静寂と寒気に覆われる。
 何事にも反応せず、冷徹なまでに心が動じない「三冬暖気なし」という状態でそのまま坐り続けていると、体の奥底に初めてのように暖気が点るのを感じる。それは外から冷風に紛れてもたらされたようにも思えるし、冷風で一旦寂滅した体内に新たに点った生命の火のような気もする。
 マゾヒスティックな錯覚かもしれないが、ともかく極陰のなかに陽を生ずるような「一から出直す」気分になるから不思議である。
 正月はもともと「修正する月」、一年の間に生じた歪みを直そうという機会である。だから禅寺では原点である初祖菩提達磨に還れ、ということで、どこのお寺でも達磨の軸を飾るのである。
 通常私は、正月だからといって特別な目標を立てたり何かを誓ったりはしない。ただリセットされた自然状態の判断で、その都度現実に応じていこうと思っている。
 しかし福島県に住んでいると、今はどうしても政治や行政の動きが気になる。目標も持ちたくなる。震災の残り火がまだまだ燻る状態だからこそ、すべてのストーブ(第一原発、第二原発)を消して(廃炉を決めて)もう一度新たに厳寒のなかから歩みだしてはどうかと思うのである。
 戸はすでに開け放たれ、しかしストーブは消されない。寒気と暖気が入り交じって寒さも中途半端である。清新の気は、究極の静寂と厳寒のなかでしか感じられないことがあらためて思われる。
 達磨さんがいつになく厳しい目つきで睨んでいる。「清新の気以上に大事なものが、何かあるのか」目は怒りながらそう告げているような気がする。

2014/01/31 東京新聞ほか掲載

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