うゐの奥山 第23回

勧進帳

 年明けに勧進帳を書いた。「勧進帳」といえば歌舞伎の十八番の一つとして夙に有名だが、ここで申し上げたいのは本物の勧進帳、つまり寺社などの造営、修理のため、ご寄付を募る主旨の文章である。
 弁慶はただの白い巻紙をそれに準え、朗々と読み上げたわけだが、私にそんな器量はない。「そもそも慧日山福聚寺は」と始まり、七百年ちかい歴史の春秋をまじえつつ、それを護持し、修復してきた人々の熱意を讃え、現在の老朽化を文章で訴えなくてはならない。
 もともと東日本大震災の年に勧進する準備を進めていた。しかしさすがにあの年は、檀家さんの多くも罹災したため、寄付をお願いするどころではなかった。うちのお寺の庫裏も「半壊」と烙印を押され、開かなくなった戸などもあるものの、そのまま三年待つしかなかったのである。
 三年ではまだ足りない、という声が聞こえてきそうだが、屋根がすでに限界を超えている。十年保つと言われた塗装をしたのが十四年前。今では塗り替えてほしいと言っても危険で登れないらしい。
 あれこれ調べているうちに、この寺の不幸だった時代が浮かび上がってくる。一七八一年に屋根から燃えだしたとされる本堂と庫裏だが、四年後にもう一度類焼で焼けている。一度灰燼に帰してから四年、というのは、どう考えても再建中だったとしか思えない。おそらく新築途中の建物もろとも、再び燃えてしまったのだろう。呆然と佇む和尚の名前は大信禅師。当時の三春藩を治めていた秋田家の殿様がこれを哀れみ、雪村庵を買い取って住居用に移築してくださった。これが現在の庫裏の書院になっているため、ここだけはそのまま保存したうえで、庫裏全体を作り直す作業になる。
 設計見積もりを取ってみたところ、今の福島県の業者に頼んだ部分がベラボーに高い。震災前の一・五倍以上らしいが、復興景気とアベノミクスの影響は甚大と言うしかない。人は不足し、仕事はこなせないほどあるのだから、当然といえば当然なのか。
 しかしたとえばここ数年のうちに、見積価格が確実に下がるとは誰にも言い切れない。ええい、やるしかないと、とうとう勧進帳を書いたのである。
 今でも心苦しさが、ずいぶんある。できることなら、普請などしたくないというのが正直な気分である。しかしよくよく考えてみると、これは私に与えられた使命のようにも思えてくる。いつかはしなくてはならず、おそらくしないでいる年数が増えるほどに、負担は増していくのである。
 「寺」という文字はもともと「同じ状態に保つ」意味。「侍」も「待つ」も「恃む」も、あるいは「痔」だって状態が変わりにくいから「寺」が入るらしいが、「寺」そのものを保つことはなにより大変な仕事である。

2014/02/28 東京新聞ほか掲載

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