うゐの奥山 第25回

八風吹けども

 春一番、二番と、風を数える。また三寒四温と言いながら、本格的な春の日を待ち焦がれる。特に北国では、南のほうの梅や桜の開花情報を横目に見ながら、ゆっくりと桜前線が北上してくるのを待っている。やたらといろんなものを数えてしまうのも、きっと待ち遠しさのせいなのだろう。
 周囲には、福寿草やサザンカが雪の中に鮮烈な彩りを添える。水仙が咲くともう春はすぐそこである。水仙も福寿草も、雪につぶされながら見事に甦ってくる。東北の人々は、特に寒さのなかで咲く福寿草や水仙、また梅の香りを愛しているような気がする。  今年は二月の重い雪で本堂前の紅梅が折れた。折れ口はすでに深紅に染まり、花の準備を調えていたことがわかる。一瞬、東日本大震災の凄惨さを憶いだしもしたが、思えばこの手の自然災害は、日本の日常だったのである。
 さて今日は、自然災害のなかでも、風について考えてみたい。
 風という文字は、鳳と虫の組み合わせだが、ここで虫とは、龍のことである。人知を超えた力による自然現象なのだから、風向きも強さもコントロールしようがない。最も日常的な自然である。
 風媒花はそれを恵みとして利用し、また野茨なども風がないと生きてゆけないらしい。中国の荘子は人が息をして生きていくように、地球も風によって生きていられるのだと考えた。実際、洗濯物を乾かしてくれたり、最近は電力まで生みだし、我々の暮らしを助けてくれている。
 逆風と思っていたものが、こちらの在りようや力量しだいで順風に変わる。それは実際の風に限らない話である。
 禅語に「八風吹けども動ぜず天辺の月」という言葉があるのだが、我々を脅かす八種の風とは、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽である。利(成功)も衰(失敗)も我々を動揺させ、毀(陰でそしること)や譏(面前でそしること)が怒りを呼び、我が身を揺らがせるのは理解しやすい。また苦も楽も、活かしようを知らなければ月を隠す雲になるだろう。
 しかし称(面前で褒められること)や誉(陰で褒められること)が風とはどういうことか。褒められればおだてに乗って平常心を失う。まして陰で褒められていることを知った場合、歓喜雀躍して熱風に足をすくわれるのかもしれない。
 ならば禅は、喜怒哀楽を避けよというのか、というと、そうではない。風の如く、感情を引き摺らなければいい。要はタッチ・アンド・リリース。どんな感情にも居着いてはいけないのである。
 え? なんだか今日のはまとまりがない? それも風の特徴です。人工的な風は妙にまとまっていて風らしくない。とにかく今はこうして屁理屈をこねながら、春を待っているのである。

2014/05/31 東京新聞ほか掲載

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