令和の「治水」へ

 先日、女房の友人が名古屋から電話をよこし、「そっち(福島県)は日本の災厄を一手に背負ってるみたいだね」と話したらしい。台風十九号による死者が全体で八十人を超え、県内がそのうち二十九人で最多と分かった頃だし、無理もない反応である。当然、それ以前の原発事故被災も含めての感慨だったのだろう。
 しかし私は、今回の台風被害を福島県特有の災厄とは思いたくない。むろん福島第一原発に流れ込んだ約三千トンの水は心配だったし、フレコンバッグが流されたとの報道にもドキッとした。しかし、基本的にこれは、台風の進路によっては今後日本のどこでも起こりえる普遍的な問題ではないだろうか。つまり、「治水」の方法が今のままでいいのか、という問題である。
 現在の日本の治水は「連続堤防」と呼ばれ、水のエネルギーを全て堤防の内側の川に封じ込めて海まで運んでいく。これは明治の初め、オランダからやってきたヨハネス・デ・レーケが三十年に亘って指導し、全国に定着させたやり方である。なるほどオランダのように海抜以下の国土が多く、川がゆったり流れるヨーロッパなら妥当だろう。同じオランダ人ファン・ドールンの指導で、福島県には安積疎水もできた。
 しかしレーケ自身が驚いているように、日本の川はいつでも「滝のよう」になる暴れ川である。はたしてこの川が氾濫し、堤防が決壊するのをどこまで防げるのか……。
 政府は今回の堤防復旧にあたり、川底を掘ったり、堤防を嵩上げするなど、河川防災対策の拡充を検討しはじめた。しかしこれも、あくまで「国土強靱化」という考え方の枠内でのことだ。水の力を川に封じ込めるという考え方じたいに変化はない。
 じつは日本には、日本の川に合ったやり方が、江戸時代までは確実にあった。「流域治水」と呼ばれるそのやり方は、水の力を川の中ばかりに封じ込めず、堤防の各所に斜めの切れ目を入れ、溢れた水は流域の田圃や湿地帯、遊水池などに逃がしたのである。そうした考え方を代表する堤防が、武田信玄の発案になる「信玄堤」であろう。
 じつは私の住む福聚寺の境内は、数年前から土壌改良と水脈づくりに励んできた。「杜の学校」を主宰する矢野智徳さんの指導で、まずは墓地や参道に水が沁み込むよう草を生やし、地中には木や竹、炭などを埋めて水脈を確保し、土中の円滑な通気通水を促した。基本的にそこに降った雨はなるべくそこに沁み込むように、U字溝などもあちこち割って行ったのである。
 もともと昔の小川は土や石で囲まれており、水の一部は流域に浸潤していた。ところがどこもかしこもU字溝を敷設し、地面もコンクリート舗装したため、膨大な水がすべて川に流れ込み、しかも下流に行くほど膨れあがる仕組みになってしまった。日本の都市は、たいてい川の下流の沖積部にあるのに、である。
 幸いお寺の境内では、屋根を打つ雨の強さには驚いたものの、山にも地面にも別事なかった。皆さんの家の周囲にも是非このやり方をお勧めしたい。
 ただこの「流域治水」の考え方は、うちのように山の上なら単独で行なってもいいが、川の流域では全体で一気にシステム転換をしないと意味がない。「連続堤防」が水への連戦連勝を目指す方法だとするなら、「流域治水」とは勝負を避けるために小さく負け続ける方法かもしれない。
 「令和」とは朝鮮半島との和合を使命とする時代かと思っていたが、どうやら自然、とりわけ水と和する方法についても、真剣に考えるべき時代になったようだ。

2020/01/14 三春舞鶴通信掲載

関連リンク

タグ:

トップへ戻ります