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蘭とサンショウウオとNPO

禅宗の僧侶である玄侑宗久さんは、”論理的にきちんと解釈したい、安定したい”――そう考えがちな私たちに「コンセプチュアルすぎてはいけない」と論す。示唆に富んだ談話のなかから、変化し続ける部分を受け入れ、しなやかにかつどっしり構えて成長していく人間や組織のあり方が見えてくる。

率直にお聞きしますが、玄侑さんはNPOをどう捉えてらっしゃいますか。

NPOという言葉にはnonが頭についています。利益を第一義的な目的にしてはいけないということですね。一方でNPOという言葉は、第一義的な目的は何なのかということは言っていないわけですよね。自分たちで考えなくてはいけないのでしょうけれど。
 フランスの国旗は「自由・平等・博愛」を3つの色で表しています。この3つが人間にとって最も大事な3つの要素だと認めるならば、プロフィットはどこにつながるかというと「自由」です。自由は経済が、平等は政治が、博愛は宗教が担うのだと思います。経済と政治と宗教がうまくからまったときにうまくいく、と考えられていたわけですが、今の政治というのは平等を目指しているとは考えにくい。経済原理が政治の中にどんどん流れ込んで、平等を脅かしているというのが現状だと思います。
 NPOはプロフィット、すなわち経済原理だけではないと謳っているので、平等や博愛が入りこむ余地があります。ただしある種の不自由を覚悟しなくてはいけません。不自由を覚悟することで平等と博愛を得る、という成り立ちになるのではないでしょうか。
 また、オーガニゼーションですので「組織」である難しさがあります。オーガニゼーションは細胞と人体の関係にも例えられます。人体はお互いが基本的にはノンプロフィッタブルにかかわっています。脳は自分で考えて苦しんでいるので、自業自得かなと思いますが、心臓なんて奉仕しっぱなしです。近年、科学の発展によって1つの細胞から人体が復元できるということがわかりました。すなわち受精卵から成長して行く過程で、私は足の裏になるよ、私はひげになるよ、私は爪になるよと、他の能力を全部眠らせて組織の中の一部になっている状態ですよね。この人体そのものに学ぶべき部分は多いと思います。
 人体の不思議は、それぞれの生命がどのように活動しているかわからないが、生き続け、展開し続けている、ということです。一方でオーガニゼーション全体はそれほど変化しません。個々の細胞は入れ替わりながら、システムはある状態を保ち、しかも成長している、ということがすべてのオーガニゼーションのモデルだと思います。
 組織は死んではいけません。組織が死ぬというのは、細胞が入れ替わらないことです、人は変化し続けているのだから、変化している私というものを受け入れていけるものでなければなりません。組織にも恒常的な部分と、変化して止まない部分の両方があり、変化して止まない部分を受け入れられることが大切です。そこで肝心なところは、やっぱりいのちです。魂というか。

「多生の縁」という本を出してらっしゃいますが、このタイトルに強く惹かれました。多様性を受け入れる可能性を感じるというか。

縁という言葉の非常に難しい点は「コンセプチュアルすぎてはいけない」ということです。「この組織はこういうためにあります、だからこういう活動をしていて、それ以外のものはやりません」。これは非常にコンセプチュアルで、大きな目標に向かって邁進していくあり方です。多くの人もどこかの会社に入るために努力するわけで、目標を設定して邁進する、非常にコンセプチュアルなあり方が重視され、よいとされているのが今の社会、経済です。
 しかし「ご縁」というのは、思ってもみない方向に変化させるものです。「こういうつもりで始めたけれど、なんだかここに入ってきた他人がこういう人だったから、こうなっちゃった」というときに「いやぁ、ご縁だしね」というしかないのではないでしょうか。そういうコンセプトのゆるさにご縁が入る余地があるわけです。たまたまお寺の前で誰かに会った。それがNPOにとって大きな役割を果す、そういう人になるとは思わなかったという出会いがあるかもしれない。出会いはそこに開かれていないとしょうがない。コンセプトがゆるいほうがいいということです。

冒頭にもありましたが、NPOという言葉は目的を表していません。それに代わる言葉が必要だという議論もあります。

人間の活動の大部分はNPOなりNGOなので、敢えてこういう言葉で表現されると違和感もありますが、まぁ、日本の歴史はそういうものですよね。江戸時代にあったものが明治になって翻訳語で読まれて、なんだか改まったもののように思われる。実態はどうかというと、江戸時代にあったもので、総合性だけが欠けている、ということは少なくありません。オーガニゼーションというのは微妙な絡まりですが、我々は絡まりの全体を見落としがちです。
 ダーウィンが非常に興味をもった植物に、南米に咲く蘭があります。蘭は最も進化した植物と言われているのですが、最も進化したと言われながらどうしてこういう生態の蘭があるのか、と思う例がたくさんあります。例えば受粉ができる昆虫を特定していること。これは一種類の昆虫に依存度を高めることになり、生存のためには非常に危険な賭けです。さらにダーウィンが驚いたのは、その蘭自体が発する匂いで集まるのはハエで、そのハエを食べるためにクモが集まり、そのクモをたべようとしてハチドリが集まる。結局そのハチドリが受粉をするということです。しかしハエやクモがいなくなるとハチドリがいなくなり、受粉できません。淘汰的な進化の過程を考えると、なぜ、と思えてきますが、その蘭はなぜか周囲への依存度を高める道を選んだのです。
 今学校で教えているのは自立しなさい、依存度を低くしなさい、ということです。でもそうなのか。より依存度を高めるという蘭のような生き方もあります。特定の昆虫に依存度が高まると受粉の機会を逃すこともありますから、蘭は花期を長くしました、依存度が高まったことで花が咲いている期間が長い。人間もそうありたい、と思います。

確かに今自立という言葉が大流行です。その中で「自立」ではなく「自律」を重視すべきだ、とも言われていますが、それについてはどうお考えですか。

どちらにしても依存度を低めることを目指しています。しかし、なんというか、かわいくないと生きていけない。かわいくないな、と思われたら生きにくくなります。蘭の魅力は花そのものの他に、それだけ依存している、というところだと思います。蘭の中にはスズメバチに依存しているものもあって、そうなると大概のものはよってくることができないので、NPOがそうなってはよくないと思いますが、最高に進化している蘭がなぜこんなに依存度を高めたのか、ここからは学ぶべきです。

では、最後に、玄侑さんにとって依って立つものは何ですか? 自分の根本にあって常に戻る場所というか。

最近それをサンショウウオと言っています。「サンショウウオの明るい禅」という本を出しましたが、「自分の中にサンショウウオを1匹飼いましょう」と。サンショウウオというのはおもしろい生き物でね。つかみどころがない。私たちは論理的にすっきり解釈したいし、落ち着きたいと思っているのに、いかにも不安定な、落ち着かない格好で落ち着いている。褒められても貶されてもど~んとしているあいつ。そういうものを自分の中で飼ったらどうか。相手に応じて変化することが必要だけれど、一方で相手がどう出てこようと動かない自分。これがひとつの「信」だと思うんです。

2005/06/01 NPOのひろば掲載

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