信頼喪失社会を語る

文明と心

「身体」を過度に軽視

 人の生活を支えるシステムには、不如意なことや予測し得ないことが起きても対処できるような仕組みが、本来あるはずだ。ところが、昨今の事件に対する社会の反応を見ていると、この柔軟性を欠いているように強く感じる。
 例えば、小学校に変わり者が乱入した。すると、変わり者がいつ現れても大丈夫なように、警備員を配置し、登下校には親が付き添い、絶対に再発しない形を目指す。台風で窓が割れないようにと、窓のない家を作るようなものだ。風通しが悪くて住めたものではないだろう。
 いつ何が起こるか分からないシステムは信用しないことにしようという方向に、社会全体が進んでいる印象を受ける。しかし、いつ何があるか分からないけれどまず信用する、というのが人間関係の基本であるはずだ。薬と言われれば、プラシーボ(偽薬)効果で、うどん粉も効くことがある。信用が根底にない社会は悪事を増やす一面がある。
 本来めざすべき形は、子供たちがよりよい環境の中で、自然とも地域の人間とも親しみつつ、教育の成果を上げることではないか。ところが、いざことが起こると、泥縄式に、すべてを変えようとする。
 この傾向は、世の中全般に見られる。例えば、今月の目標値を定めると、数字が独り歩きし、それに達しないと満足できなくなる。本当に大事なのは取り決めではなく、取り決める時の状況。しかも状況は刻一刻と変わる。今の状況では、その時決めた数字はおかしいかもしれないのに、顧みることもない。
 例外的なことが起こっても揺るがないシステムが、かつての日本にはあった。それを私は「やおよろず」的と呼んでいる。いろんな価値観の並立を認め、いろんな考え方があっていいんじゃないのという寛容心に包まれた社会だ。
 パソコンで言うと、日本人のベースにあった基本ソフトが「やおよろず」ソフトだった。「和魂洋才」と称し、外国の様々なアプリケーション(応用)ソフトを持ってきて使えた。キリスト教は悪と言っているが、イスラム教ではどうも違うぞ、という風に。
 今、この基本ソフトの教育がないまま、応用ソフトばかりをたたきこまれた弊害が、一挙に噴出している。多様なものを単一化、画一化するという形で。企業は経済原理だけで合併を進め、政治も単一化に次ぐ単一化。個人のレベルでは、アイデンティティー(単一の個性)によって縛られる。統一的なアイデンティティーを前提にすると、そこからはみ出すものは異常、となってしまう。人格の「ゆらぎ」を誤差として認めない。
 ただ、「やおよろず」的な時代に時計の針を戻すことはできない。まず行なうべきは、カオス(混沌(こんとん))としての自然や身体を見直すことではないか。現代社会は、「身体」をあまりにも軽視している。日本語では、「身」「心」という。「身」には「心」が混じっているし、「心」には裏付けとして「身」が含まれる。相互に重なりあっていて、西欧の精神・肉体の二元論とは全く違う。これが日本の独自性だ。

七福神の精神で

 「あいまいさ」は日本人の欠点のように言われてきたが、「身」によって伝わるものが共通認識としてあるからこそ、「心」を全部言語化しなくても分かり合えるということだ。共通認識の部分が、論理ですべてを理解しようとするロゴス(理性)主義の西欧人より広い。欠点ではない。自信を持っていい。
 人間は自然の一部。人間そのものもまた、大いなる自然。自然そのものに矛盾はないが、自然を解釈しようとする人間の頭の中に矛盾が生まれてくる。自然の本質はカオスだから、ロゴスでは説明がつかない。何をするか、何が起きるかわからない自然というものを前提に、借り物でない、日本の実情に見合ったシステムを作り直す必要がある。
 あまりに強く因果律に縛られた効率重視の社会を越えるものの一つが遊びだろう。禅には「遊戯(ゆげ)」という言葉がある。何かをして、それに見合った結果を後に期待するのではなく、今していることの中に楽しみを見いだし、人生の喜びに変えてしまおうという考え方だ。
 七福神の精神をご存じだろうか。なぜ七福神がめでたいかというと、あの7人はどんな問題をぶつけても、必ず意見が割れるから。その代わり、6人が反対しても必ず1人は賛成してくれる。
 「おれは違うけど、お前も面白いね」と言って笑い合う態度。いまこの社会に必要なのは、自分とは違う習俗や思考法に対しての寛容な心のあり方ではないだろうか。


遊戯(ゆげ)…効率性から見れば無駄なことを、見返りを求めず心から楽しむことをさす禅語。玄侑さんの寺では今年も餅(もち)つきをした。「餅つき機も、切り餅も売っているのに、と言われればそれまでですが、楽しいからやっている」。一つの境地に徹して、それを喜び楽しむことを「遊戯三昧(ざんまい)」と言う。

2005/12/29 読売新聞掲載

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