日曜論壇
福島民報「日曜論壇」にエッセイ「愛姫生誕四百五十年」掲載
(おしらせ・
2018/4/8 )
2018年4月8日の福島民報「日曜論壇」にエッセイ「愛姫生誕四百五十年」が掲載されます。 【追記】 本文を転載しました。下記リンクよりご覧ください。 […]
愛姫生誕四百五十年
(エッセイ・
2018/4/8 )
お寺ではあまり生誕何年というお祝いはしないのだが、今年は永禄十一(一五六八)年に生まれた愛(めご)姫(ひめ)の誕生から四百五十年めになる。福聚寺の開基田村家のご息女であるわけだし、年忌ではないが無視するわけにもいくまい […]
聖「冬のポンプ屋さん」
(エッセイ・
2018/2/4 )
職業に貴賤(きせん)はないし、どの仕事もそれなりに大変なのはむろん承知している。海幸彦山幸彦の話を持ちだすまでもなく、どだい比べようがないのだし、かの福沢諭吉先生も他人の職業を羨(うらや)むことは世の中で最も下品なこと […]
民主主義の赤字
(エッセイ・
2017/12/3 )
今朝もまた、ミサイルが飛んだらしい(十一月二十九日)。午前四時まえのことで、全国瞬時警報(Jアラート)も鳴らなかったから、知らない人も多いようだ。 青森県の漁師さんたちは相当緊張しただろうが、殆んどは「え? そうなの […]
山繭さま
(エッセイ・
2017/10/1 )
この夏、女房が伊達市の「霊山こどもの村」で、繭(まゆ)を使ったワークショップを行なった。繭から純白の糸をほぐし、それを自分なりに膨らませた風船にもう1度巻きつけ、乾いたら風船を割る。すると自分だけの形の繭ができあがると […]
「言った」「言わない」
(エッセイ・
2017/7/30 )
結婚して数年の頃か、「言った」「言わない」という論争ほど無益なものはないと悟り、記憶を頼りに正しさを主張するのはやめにした。どちらかの記憶が間違っていることもあるが、人の記憶はもともと曖昧なものだし、時と共に変質もする […]
危うい優生思想
(エッセイ・
2017/5/28 )
デザインベビーという言葉が使われるようになって久しい。アメリカではノーベル賞受賞者の精子を高く買い、美人でグラマラスな女性の卵と受精させる、というのもあながち冗談ではないらしい。 神への冒涜、あるいは自然への挑戦と言 […]
さよならキヱさん!
(エッセイ・
2017/3/26 )
3月16日の朝、お寺に一本の電話が入った。私をこの世に取り上げてくださった産婆さん、渡邉キヱさんが亡くなったのである。行年は103歳、みごとな大往生であった。 それは昭和31年、4月28日の夜遅くだったらしい。産婦人 […]
「つぶやき」のヘイト政治
(エッセイ・
2017/1/22 )
いつから人々は、なにかを嫌うことを権利として認めるようになったのだろう。しかも私的な場面ではなく、公の場での話である。 思うにそれは「嫌煙権」という言葉からではなかったか。 好きとか嫌いというのは価値判断というより […]
イスラム社会と向き合う
(エッセイ・
2016/11/13 )
イスラム社会の存在感がなんとなく増大している。しかも日本人には、ムスリム(イスラム教徒)についての知識が少ないから、IS(イスラム国)との区別もつかず、ただ怯えを増大させているかに思える。 イスラム社会といえば、すぐ […]
己の欲せざるところ
(エッセイ・
2016/9/11 )
『新約聖書』マタイによる福音書第七章十二節には、「己の欲するところを人に施せ(Do as you would be done to)」とある。一方、『論語』には2カ所、顔淵篇(がんえんへん)と衛霊公篇(えいれいこうへん […]
第三者の「推認」
(エッセイ・
2016/7/10 )
このところ、第三者委員会というのが流行っている。東京都知事だった舛添要一さんで有名になった感があるが、じつはその前の猪瀬直樹知事の問題のときも、また小渕優子元経産大臣の会計処理問題でも活躍した。 舛添知事のときは、「 […]