日曜論壇
未然防止策?
(エッセイ・
2007/12/9 )
以前、私はあるエッセイに、入国に際して指紋や写真を要求し、容疑者扱いするような国には今後永久に行かないだろうと書いた。すると編集者が気を利かせ、「これはちょっと過激すぎませんか」と言うから、助言に感謝しつつ「この制度が […]
奈落の月
(エッセイ・
2007/10/7 )
今年の仲秋の名月は、九月二十五日だった。坐禅会の終わった十時すぎに夜空を見上げると、薄曇りではあったがそれでも大きな月がかかっていた。 上座部仏教圏では、お釈迦さまが生まれたのも成道されたのも、亡くなったのも満月の日 […]
ちょっと待って!
(エッセイ・
2007/8/5 )
待たなくていい世の中になってきた。「三分間、待つのだよ」という宣伝もすでに古く、「お待たせしません三十秒」というのまである。 だから人は、待てなくなった。特に携帯電話の普及によって時差も距離も関係なくなってしまったか […]
若冲展に思う
(エッセイ・
2007/6/3 )
京都相国寺の承天閣美術館で開かれている若冲展に行ってきた。 これほど人が行列しているのを見たのは何年ぶりだろうか。パンダかモナリザを憶いださせる盛況ぶりだった。しかもそこに私が並んだのだから珍しい。ふだんはたとえどん […]
嗜好品という文化
(エッセイ・
2007/4/17 )
広辞苑によれば、栄養摂取を目的とせず、香味や刺激を得るための飲食物を「嗜好品」という。酒やお茶、コーヒー、タバコなどが例示されるが、どんな嗜好品を好むかは人それぞれ。だからこそ嗜好品を認めることは信教の自由と同じく人の […]
約束
(エッセイ・
2007/1/28 )
人はさまざまな約束をしながら生きている。明日の約束もあれば、死ぬまでにきっと、という誓いのようなものもある。キリスト教圏には神との契約という考え方があるが、これだって約束の一種に違いない。 人はなぜ、約束するのか。そ […]
母から子への手紙
(エッセイ・
2006/11/19 )
毎年、猪苗代町が主催する「母から子への手紙」コンテストの審査に関わっている。これはアメリカ留学中だった野口英世に宛てて書かれた母シカさんの手紙に因み、母が子を想う切々たる慈愛の気持ちを現代日本で掘り起こしたい、という主 […]
無鉄砲と、鉄砲
(エッセイ・
2006/9/17 )
この夏、二人の青年がお寺に別々に訪ねてきた。一人は滋賀県から、もう一人は埼玉県からだ。なぜ二人を一緒に語るのかというと、二人とも自転車でやってきたのが新鮮だったからだ。 埼玉県の十九歳の青年は、じつは去年一度訪ねてき […]
「小学校英語」必修化に反対
(エッセイ・
2006/7/16 )
小学生には是非とも日本語をきっちり学んでほしい。私はそう思うのだが、このところ高まる英語熱には如何ともしがたい圧力を感じていた。しかしこのほど、鳥飼玖美子さんが文春新書で『危うし! 小学校英語』を書いてくださった。我々 […]
木瓜と認知症
(エッセイ・
2006/5/14 )
庭先に木瓜(ボケ)が、みごとに赤く咲いている。木瓜の花の、無邪気で爛漫な様子は、以前はどうしても「痴呆症」を想起させた。痴呆症を「ボケ」と呼んだとき、人はやはりこの花を想い描いたのではないかと、疑いなく思えたものだ。つ […]
「満」と数え年
(エッセイ・
2006/3/12 )
最近の新聞の死亡記事は、満年齢で書かれることが多い。うちの寺では死亡年齢を「数え年」で書くため、ちょっとした混乱が起こることもある。まぁ混乱といったって、生き返るほどのことはないが……。 数え年というのは、中国に由来 […]
いくつもの春
(エッセイ・
2006/1/8 )
日本人は何度も春を祝う。 お正月には「頌春」とか「寿春」と書き、もう春を祝っている。また節分は本来一年に四回あり、立春、立夏、立秋、立冬の前日をすべて「節分」と呼ぶのに、特に立春の前日だけを行事として祝う。 春の節 […]