死んだらどうなるのか。やはりその時にならなければわからない。従って、この種のテーマに取り組む書物の結論は普通、いつか必ず訪れる死の日まで一日一日を「精一杯生きる」というところに収斂(しゅうれん)していく。
本書もまた同様であるが、かと言って月並みな内容だと評するわけではない。死について考えることは、取りも直さず生きるとは何かを考えることにほかならない。それは真理である。そして、なぜそうなのかを如何に掘り下げていくか、読者の心の底にすとんと落ちてくる何事かを伝えるかどうかによって、この種にテーマに取り組む書物の真価が決まるなら、本書は期待に応えてくれる。
禅僧にして作家でもある著者は、仏教や老荘思想と量子物理学の先端理論を照らし合わせながら、「死を内包した生」の有り様を丁寧に説き明かす。人体の「個々の細胞は死んでは生まれ、生まれては死に、刻一刻入れ替わって」おり、細胞を構成する分子・原子・素粒子のレベルでも入れ替わっている。
生の内部における「絶えざる生死の繰り返し」、つまり内なる再生だが、その働きが止まるときこそが、本当の死であろう。それを仏教では「四大分離」ということを本書で教えられた。人体は、地(骨などの硬さ)・水(血液などの流動性)・火(体温という温かさ)・風(心臓などを動かす力)の四つの要素が「縁」によって集まったもので、四要素の働きが分離し「宇宙そのものの流動性である『空(くう)』に還っていく」ことが死というわけだ。「空」を自然、「大いなる循環」と置き換えてもいい。
この地上に一回限りの生を授けられたことの「縁」、そのかけがえのなさが伝わってくる。内なる生死の繰り返し・再生の働きを「魂」と呼んでもいいのかもしれない。そしてそれは、自然・諸行無常の大いなる循環から「縁」によって来たり、また「縁」によって去り、還っていくのだろうか。
死と生を考えるとき、著者はこれまで弔ってきた無数の死者たちの顔、それが元気だった頃の顔が心に浮かぶという。僧として培ってきたその真実が、本書を基底で支えている。
2005/02/09 週刊文春