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文化交流展 特別展示 白隠さんと仙厓さん
(イベント・ 2017/12/11 )

平成29年(2017)に白隠さんの250年遠諱(おんき)を迎えることを記念して、九州に遺る白隠さんと仙厓さんの代表的な禅画や墨蹟をご覧いただき、筆と墨を用いてそれぞれが描き表わそうとした、禅のこころとかたちが紹介されてい […]

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禅における心とかたち
(エッセイ・ 2016/10/1 )

 臨済禅師一一五〇年、白隠禅師二五〇年遠諱(おんき)を記念し、東京国立博物館で「禅ー心をかたちにー」展が十月十八日から開かれる。先行してこの春に京都展があったわけだが、それとはまた些か形を変え、即ち心も入れ替えて再びのお […]

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「往く」のではなく「還る」
(エッセイ・ 2016/7/18 )

 臨済宗僧侶という立場上、特定の死生観を奉じていると思われるかもしれないが、むしろ逆である。つまり、多くの人々に戒名をつけ、引導を渡すことを仕事にしているため、故人それぞれの人生上のテーマを探し、それを肯定しなくてはなら […]

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死にたくなる……
(エッセイ・ 2014/5/1 )

 これまでの五十七年の人生を振り返ったとき、今でも鮮烈に憶いだすのは初めて「自分も死ぬのか」と知ったときの悲しみである。  悲しみというより、それは今回の東日本大震災における津波のように、まったくどう受け止めていいのかわ […]

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白隠 厳粛かつポップな禅僧
(エッセイ・ 2012/11/12 )

 白隠慧鶴禅師は貞享二(一六八五)年、駿河の国、原の宿に生まれ、明和五(一七六八)年、八十四歳で遷化(せんげ)した臨済宗の僧である。諡(おくりな)は後桜町天皇から「神機独妙禅師(しんきどくみょうぜんじ)」、明治天皇から「 […]

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白隠禪画墨蹟
(エッセイ・ 2009/3/21 )

 芳澤先生は、白隠病である。この病気は白癬菌とは関係ないが、周囲にも感染する。  どうやら私もうつってしまったようだ。初めてお目にかかったとき、一緒に風呂にはいり、同じ部屋で寝たのが決定的だった。  禅師の墨蹟は、芳澤先 […]

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いくつもの春
(エッセイ・ 2006/1/8 )

 日本人は何度も春を祝う。  お正月には「頌春」とか「寿春」と書き、もう春を祝っている。また節分は本来一年に四回あり、立春、立夏、立秋、立冬の前日をすべて「節分」と呼ぶのに、特に立春の前日だけを行事として祝う。  春の節 […]

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魔羅
(エッセイ・ 2005/2/12 )

 思わず眉(まゆ)を顰(ひそ)める方もおありだと思うが、これも仏教語なのだから仕方ない。もともとは僧侶たちだけが使った隠語なのだが、いつのまにか世間に知られてしまった。ばらしたのは誰だ?  本来は梵語(ぼんご)のマーラだ […]

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すさまじき遊行の迫力
(エッセイ・ 2005/1/28 )

 この本は、まるごと一遍上人の一生である。俗世での生い立ちや成長はむろんのことだが、念仏者として自身の教義を確立していく過程も、リアルに追体験できる。編年で書かれているのは、著者の誠実なのだろう。筆を遊ばせぬ確かな素描は […]

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有時(うじ)するということ
(エッセイ・ 2003/4/8 )

 宗門人、つまり特定の宗派に属する私には、道元禅師の曹洞宗でなくて佳かった、というのが現在の正直な感想である。禅師はあまりにも巨大であり、しかもその巨大さが著書として残っているからである。  イエス・キリストも釈尊も、自 […]

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