芸術
「六田知弘写真集 仏宇宙 Tomohiro Muda Buddha Universe」に解説「一隅を照らす」を執筆
(おしらせ・
2020/3/27 )
「六田知弘写真集 仏宇宙 Tomohiro Muda Buddha Universe」に解説「一隅を照らす」を執筆しました。 また、この写真集の紹介記事を中外日報のサイトでご覧いただけます。 […]
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一隅を照らす
(エッセイ・
2020/3/27 )
この本に収められた写真たちの撮影期間は約三十年にも及ぶ。三十年を一律に語るのは無謀なことだが、逆に期間が長いぶん、六田さんの変わらない部分が見えやすいのかもしれない。 冒頭を飾った無著の写真。私はその撮影秘話を伺って […]
石田智子展「雑華zouke ありのままに」
(イベント・
2020/3/5 )
石田智子は、紙撚(こより)を幾層にも重ね合わせて独自の世界を表出する美術作家です。彼女が作り出す幻想的な作品は、国内外で高い評価を得ています。 お寺に嫁いだ石田は、そこでの膨大な仕事を日々こなすなかで、紙撚による作品制作 […]
六田知弘写真展「仏宇宙」開催記念トークショー
(イベント・
2020/1/20 )
前期:2月11日(火・祝)~3月15日(日)「みほとけのかたち―日本」 後期:3月17日(火)~4月19日(日)「みほとけのかたち―アジア」 美術館開催案内より お二人は、2016年の六田さんの個展に玄侑さんが寄稿文を執 […]
「竹林」……この厄介で魅力的な場所
(エッセイ・
2018/1/9 )
竹林とは不思議な場所である。風水ではその土地の歪みを矯正し、弱点を補うために竹を植えると聞いたこともある。また竹は地味豊かな土にしか生えないとされ、豊かな土壌の象徴でもある。 しかし最近は手が入れられず、放置されたま […]
入我我入(にゅうががにゅう)
(エッセイ・
2016/9/10 )
シャシンと聞いて、初めに「捨身」を想い、それから「ああ、写真」と思う。けれども写眞の眞とは何なのか、六田氏の作品を眺めるうちにわからなくなる。 眞は、いつかどこかに存在した束の間の時間かというと、そうでもない。印画紙 […]
村上マンダラの深化
(エッセイ・
2015/10/31 )
自噴する修行僧のように制作を続けてきた村上隆氏が、今度は五百羅漢図を描いた。しかも見晴るかすことさえ難しい全長100メートルの大幅、高さも3メートルある代物である。戦後日本のアニメやおたく文化を入り口に、江戸期からの伝統 […]
傾聴する僧侶
(エッセイ・
2014/5/26 )
昔は「旅の坊主に地侍」と言われた。僧侶は余所で生まれ育った人のほうがよく、侍は地縁血縁などを利用するためにも土地の人のほうがいい、ということだろう。僧侶はどうしてその土地の人でないほうがいいのか、何度か考えたことがある […]
白隠 厳粛かつポップな禅僧
(エッセイ・
2012/11/12 )
白隠慧鶴禅師は貞享二(一六八五)年、駿河の国、原の宿に生まれ、明和五(一七六八)年、八十四歳で遷化(せんげ)した臨済宗の僧である。諡(おくりな)は後桜町天皇から「神機独妙禅師(しんきどくみょうぜんじ)」、明治天皇から「 […]
聖なる赤い糸玉
(エッセイ・
2011/11/2 )
あらゆる宗教の核に存在する「聖なるもの」を「ヌミノーゼ」と名づけ、その非合理な二面性を指摘したのは、ドイツの宗教哲学者、ルドルフ・オットー(1869~1937)だった。オットーによれば、人はその「聖なるもの」の前でまず […]
白隠禪画墨蹟
(エッセイ・
2009/3/21 )
芳澤先生は、白隠病である。この病気は白癬菌とは関係ないが、周囲にも感染する。 どうやら私もうつってしまったようだ。初めてお目にかかったとき、一緒に風呂にはいり、同じ部屋で寝たのが決定的だった。 禅師の墨蹟は、芳澤先 […]
帰りなん、いざ!
(エッセイ・
2004/12/12 )
つい先日まで、福島県立美術館で「田園の夢」と題する展覧会が開かれていた。その展覧会の副題についていたのが標記の言葉である。 これはご存じ陶淵明の「帰去来の辞」の一節。どうして、どこに帰るのかというと、「田園まさに蕪( […]