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苦楽の尾ひれを捨てる
(エッセイ・ 2022/11/10 )

 『老子』第十章に、次のような言葉がある。「生(しょう)じて有(ゆう)せず、為(な)して恃(たの)まず、長(ちょう)じて宰(さい)せず、是(これ)を玄徳と謂(い)う」。要は「徳」についての規定で、最も深遠な徳(玄徳)は、 […]

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柔弱という強さ
(エッセイ・ 2019/4/10 )

 性格が強い、弱い、というのは、どうも分かりにくい。一般的には、自分の思いや主張を何が何でも通そうとするのが「強い」のだろうし、困難ならすぐにでも変化させるのが「弱い」のかもしれないが、本当にそうだろうか?  道場の先輩 […]

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「禅と骨」とミトワさん
(エッセイ・ 2017/9/2 )

 私とミトワさんの接触は、さほど多かったわけではない。禅寺では毎月朔日と十五日、「祝聖(しゅくしん)」といってこの国の安泰を祈る儀式を法堂(はっとう)でするのだが、天龍寺の雲水だった私は列の後ろのほうから向かい側に立つミ […]

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禅における心とかたち
(エッセイ・ 2016/10/1 )

 臨済禅師一一五〇年、白隠禅師二五〇年遠諱(おんき)を記念し、東京国立博物館で「禅ー心をかたちにー」展が十月十八日から開かれる。先行してこの春に京都展があったわけだが、それとはまた些か形を変え、即ち心も入れ替えて再びのお […]

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「最後の希望」としての幽霊たち
(エッセイ・ 2014/10/17 )

 東日本大震災以後、東北の被災地では「幽霊」の目撃譚が非常に多く聞かれる。二〇一三年七月には京都大学「こころの未来研究センター」が「被災地の幽霊」を主題にしたシンポジウムを開いた。今や、幽霊が学術的な研究対象になる事態な […]

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金輪際
(エッセイ・ 2012/12/27 )

 禅は六道を、完全に心の旅路として捉える。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間(じんかん)、天は、いずれ誰もが経験する心の在り方だというのである。 「人間(じんかん)」はもともと、人と人との間だから、世間というような意味あいだっ […]

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白隠 厳粛かつポップな禅僧
(エッセイ・ 2012/11/12 )

 白隠慧鶴禅師は貞享二(一六八五)年、駿河の国、原の宿に生まれ、明和五(一七六八)年、八十四歳で遷化(せんげ)した臨済宗の僧である。諡(おくりな)は後桜町天皇から「神機独妙禅師(しんきどくみょうぜんじ)」、明治天皇から「 […]

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禅といろは
(エッセイ・ 2006/10/4 )

「いろは」と禅  現在の子供たちは、小学校に入るとまず「あいうえお」を習う。昔はそれが「いろは」だったわけだが、「いろは四十七文字(いろは歌)」で平仮名を覚えた人々はすでに九十歳以上になってしまった。  それでもかなり多 […]

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木瓜と認知症
(エッセイ・ 2006/5/14 )

 庭先に木瓜(ボケ)が、みごとに赤く咲いている。木瓜の花の、無邪気で爛漫な様子は、以前はどうしても「痴呆症」を想起させた。痴呆症を「ボケ」と呼んだとき、人はやはりこの花を想い描いたのではないかと、疑いなく思えたものだ。つ […]

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「満」と数え年
(エッセイ・ 2006/3/12 )

 最近の新聞の死亡記事は、満年齢で書かれることが多い。うちの寺では死亡年齢を「数え年」で書くため、ちょっとした混乱が起こることもある。まぁ混乱といったって、生き返るほどのことはないが……。  数え年というのは、中国に由来 […]

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樸と器について
(エッセイ・ 2005/1/3 )

 裏山の木々の葉が落ちるこの季節になると、『老子』の「樸(あらき)」のことを憶いだす。  樸とは、何の加工もされていない、素材としての木のことだが、老子はいたくこの樸を絶賛する。たとえば十九章には聖人の在り方として「素を […]

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