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「最後の希望」としての幽霊たち

 東日本大震災以後、東北の被災地では「幽霊」の目撃譚が非常に多く聞かれる。二〇一三年七月には京都大学「こころの未来研究センター」が「被災地の幽霊」を主題にしたシンポジウムを開いた。今や、幽霊が学術的な研究対象になる事態なのである。
 私自身も、仮設住宅に「出る」というのでお祓いを頼まれた。「祓う」と言うと、なにか邪悪な存在のようだが、実際にしているのは成仏できないでいる「霊」に、成仏してもらおうという儀式である。
 どうして「出る」のかと、仏教的に考えてみると、やはり「一切唯心造」(一切は唯(ただ)、心が造る)という『華厳経』の一節がどうしても浮かぶ。多くの死者の存在はむろん前提にあるわけだが、問題なのはその死を「仕方ないよね」と思えない人々の側にあると言えるだろう。場合によっては、生き残った人々が生き残ったことを「負い目」に感じているせいで、「出る」のではないか。
 あまり単純化してはいけない話だが、無差別に、大量の人が亡くなった今回のようなケースでは、おそらく死者の「無念」が誰にでも容易に想像される。この場合の「無念」は、むろん念が無いのではなく、「残念無念」のほうだ。そして生き残った人々は、彼らの「無念」を感じると同時に、自分が生き残ったことについての合理的な解釈ができないのである。「出る」のを「見る」人々の背景に、私はそのような事情を感じるのだが、如何だろうか。
 個人的に知っている死者だけでなく、同じような死者が大勢いると思えば、その「無念」は雲のように、あるいは空気のように周囲に広がっていく。おそらくそれは、万人に共通するとされる「阿賴耶識(あらやしき)」という深い無意識に関係している。いったい何が「阿賴耶識」どうしを繋ぐのか、どう発信するのか、それは分からないが、たぶん人間にはそのような能力がもともとあるのではないだろうか。
 そう思えば、今回聞かれる類型の一つ、電話ボックスに大勢人々が並んでいるのが見える、というのも、なんとなく分かるような気がする。携帯電話が通じないのに公衆電話だけは通じた地区があるらしく、実際に迫る津波を尻目に電話ボックスに並ぶ光景があったそうだ。しかしそれを幻として見る人は、そんな実景を見ているとは限らない。ところがなぜか、「出る」のは集団なのだ。子供を亡くした無数の母親たちの無念が「姑獲鳥(うぶめ・産女)」という集合霊に集約されるように、繋がらない、あるいは間に合わなかった電話への無念が、並ぶ人々の列を長くするのではないか。
 そういえば今回は、各地でタクシー運転手たちも怖い目に遭っている。たいていは閑静な住宅街など、意外な場所で乗ってくる客らしいが、行き先を訊くと無感情な声で津波被災地を告げる。「お客さん、あそこは今、なにもありませんよ」などと運転手は言うのだが、言われたとおり行くしかない。街灯もない真っ暗な場所で「この辺りですかね」と振り向くと、さっきの客はどこにもいないのである。あとはシートが濡れていたり、いなかったり……。

 今回、編集部からいただいたテーマは、「いま霊魂を考える意味」というものだった。霊魂と言われてすぐに幽霊の話を書いたのは早計だったかもしれない。しかし霊魂とは、明らかにスピリチュアルとか霊性などで言い換えられるものではない。「霊」はもともと神霊に祈ることやその儀式を意味し、「魂」とは雲状になって霊界に入る「たましい」のことだ。たしかに「魂胆」などのように「魂」は「こころ」の意味にも使うが、霊園の「霊」と一緒になった「霊魂」が死者と無関係なはずはないだろう。
 先ほど私は、多くの人々が亡くなり、自分が生き残ったことについて、合理的な解釈ができないという事情を申し上げた。つまり因果律を異常なほど信じる現代人であるだけに、自らの生じたいに合理性のほつれを感じ、非常に不安定になるのである。
 もしかすると霊魂とは、合理性の限界を示すその空白に現れるのではないか。あるいはむしろ、暴走する合理性への信仰に待ったをかける、脳内装置という見方もできる。
 少なくとも日本人は、もともと「虫の知らせ」とか「直観」と言われるものを、昔はもっと信じていた。なんとなく「こっち」と感じるから「こっち」へ行き、「行かないほうがいい」と感じれば立ち止まったものだ。しかし最近は、全てが「目標」や「計画」によって事前に決められてしまう。その場の感覚や「無意識」よりも、「目標」や「計画」、あるいはそれを考える「意識」のほうが尊重されるのである。
 大袈裟に言えば、それは地理上の発見を成し遂げた人々のやり方ではないか。この海をまっすぐ進めばインドに着くはずだと思い、艱難辛苦を乗り越えてとにかく彼らは前進した。そしてとうとう目指す大陸に行き着いた体験が、目標や計画を過大に尊重する考え方を産んだ。インディアン(インドの人々)という呼称が間違っていたと気づいても、訂正さえしないのである。
 しかし日本人は本来、もっと無計画に、その場の直観で進み方も変えたのではないか。無計画というと聞こえが良くないが、要は武道を想えばわかりやすい。つまり事前に予断をもたず、無心で敵に向き合うことができればそれが最も強いのだ。
 因果も進んできた道も、我々が振り返ったときに初めて見えてくる。常に未知の時間へ突き進む以上、既存の因果律や不用意な計画を未来に持ち込むのは危険すぎる。今、直観でそのように判断する理由は、後になって「なるほど」と事後的に諒解されるのである。
 
 「阿賴耶識」と呼ばれる深い無意識は、じつはそのような直観を産みだす源である。坐禅や瞑想などをしていると、そこから沁みだしてくる情景に自分で驚くことも多い。しかしそうして時々「阿羅耶識」との交通が叶っていれば、変な言い方だが「阿賴耶識」も宥められるのではないか。到底「意識」では気づき得ない、深い無意識の欲求も日頃からある程度は成就するのではないだろうか。
 ところが現代人の日々は、まだ訪れてもいない未来をシミュレートし、根拠の希薄な目標へ向かうためにひたすら消費される。ときおり今に立ち返り、奇妙な感覚を抱いても、「気のせい」と切り捨てるだけなのだ。
 東日本大震災の経験で、我々は結局直観に従うしかないのだと、気づいたのではないか。自らの深い沈黙の発する微かな声に、耳を傾けるべきだと知ったのではないか。それなのに国や行政は、今回とは必ず違うはずの次の震災に向けて、更に細かいマニュアルを作ろうとする。「阿賴耶識」が呆れても無理はない。呆れた「阿賴耶識」が、それを用いる気のない人間の外に沁みだしてきても何の不思議もないではないか。
 「いま霊魂を考える意味」、あるいはさまざまな「霊異」を体験する意味は、だからはっきりしている。ユングが指摘したように、合理性が進んだ社会ほど「霊異」は現れやすくなる。もっと「阿賴耶識」の声を聞け、いたずらに計画ばかり立てず、深い直観に従う勇気をもて、そう告げているのではないか……。
 もっと言えば、コンピューターでシミュレートし、知ったつもりの未来を否定するために「幽霊」は現れる。またデータとしてすでに確定したかに見える過去が、あっさり変えられることを示すために現れるのではないか。
 もしも「見る」人の心の奥底に、自分が生き残ったことが合理的に諒解できない感覚があるのだとすれば、それこそが我々に残った最後の「希望」と言えるだろう。天地に仁なし(『老子』)とも言うように、自然の振る舞いを合理的に解釈するのは到底無理だが、この私が生きつづけていくことはもっともっと非合理なのだ。
 非合理な生に気づくことを我々に促し、その生を祝福するために「幽霊」は現れるのだろうか……。おっと、また合理的な解を求めてしまった。私の「阿賴耶識」も呆れかけている……。

2014/10/17 大法輪 11月号

タグ: 仏教, 東日本大震災, 瞑想, 老子