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「禅と骨」とミトワさん

 私とミトワさんの接触は、さほど多かったわけではない。禅寺では毎月朔日と十五日、「祝聖(しゅくしん)」といってこの国の安泰を祈る儀式を法堂(はっとう)でするのだが、天龍寺の雲水だった私は列の後ろのほうから向かい側に立つミトワさんを月に二回ほど眺めていた。初めはそれ以上でも以下でもなかったのである。
 向かい側には老師や宗務総長はじめ、偉い和尚たちが並んでいた。老師に近い場所に立つミトワさんは、天龍寺山内でそれなりの立場を与えられているかに見えた。そういう場所に立つ人々には、道場に入ってまもない雲水など十把一絡げに見えても仕方ないわけだが、ミトワさんという人は違っていた。なんと言えばいいのか、その眼差しがいつも、徹底して「個」として人を観ている気がした。役や立場に関係なくそれぞれ違った歴史を抱えた「個」として人を見つめ、見つめられたほうがそれだけで嬉しくなるような不思議な温度を放射していた。あえて少々無理に言葉にすれば、それは自他双方への「天上天下唯我独尊」という主張だったのかもしれない。我が師平田精耕老師にもそれは強く感じたものだった。
 道場という場所には序列が明確にあり、人が縦一列に並べる関係に改変される。日本の軍隊は臨済宗の道場をモデルにしたとも言われるが、それほどに「個」が埋没し、非常時に絶大な機動力を発揮する集団なのだ。不思議なことだが、道場を出た禅僧はみな極めて個人主義的なのに、道場という場所では例外的に没個性が要求される。そんな場に置かれた私が、そのとき最も飢えていたのがたぶんミトワさんの発するような「個」への眼差しだったのだろう。
 今回、『禅と骨』を視て初めてミトワさんの出自来歴を知ったが、まずなにより痛感したのは、彼の不思議な眼差しを支えていた強い信念である。おそらくミトワさんは、何があっても決して人をその所属や立場で決めつけるようなことはしない。それこそ彼の人生上の信念ではなかっただろうか。ミトワさんはおそらく戦時の体験を通じて、集団のもつ恐ろしさを身にしみて感じていたのだと思う。
 やがて南芳院にも訪ねるようになった私は、その思いに確信をもった。自由な陶芸作品や絵画、調度品などにも、禅的「遊戯」の境地を感じたものだった。しかし今回の映画を見てしまうと、もはや別な感慨が私を包んでいることに気づく。あれは「禅」というより、むしろ「骨」のほうではなかったか……。
 もとより私の中で「禅」と「骨」はうまく結びつかない。永源寺開山の寂室元光(じゃくしつげんこう)禅師は、「死して巖根に在らば骨もまた清からん」と言ったが、これとてむしろ骨など恭しく供養されず、巖根に朽ち果てんとする生き方の主張だろう。また釈尊も自らの骨は、彼の地の古来の習慣どおり山や川に撒けばいいと考えていた。むろん両者ともそうはならなかったわけだが、骨まで保管し、祀ってしまうというのは人間の抜きがたい「情念」のなせるワザではないだろうか。正直なところ、私は南芳院の内部にあれだけの「骨」が所有されていたことに驚嘆した。そしてミトワさんのあの温かな眼差しも、あるいはミトワさんの「情念」「情愛」から発していたのではないかと思い直したのである。
 禅における自由は、老子の謂う「生じて有せず」、つまりどんどん生みだしながら記憶も感情も生みだしたモノじたいも所有しないところに帰する。当然「好き嫌い」からも解放されるから、自由なのだ。
 しかし人間、そんな建前のような生き方が簡単にできるはずもない。特に創作への熱源は、記憶やそれに絡む「情愛」ではないか……。ミトワさんもきっとそう思っていたのではないだろうか。
 骨肉というけれど、生身の家族との微妙な関係まですべて撮影を許したミトワさんの覚悟は、凄い。禅僧であれソクラテスであれ、家族に自由にコメントなどさせれば何もかも「形無し」になるに決まっている。いわゆる禅の美学など吹き飛んでしまうだろう。しかしそれも自分の人生なのだ、自分が受け容れるべき「縁」の総体なのだと、人生や縁を主体にしてすべてを反転させて見たらどうだろう。
 それは「禅」に美学を見いだし、「骨」をも自らの根として重視する、じつに正直で豊かな縁に満ちた人生ではないだろうか。
 最後にお会いしたのは、たまたまこの映画の資金づくりのため上京された折、東京駅でバッタリだった。お互い時間もあまりなかったが、近くのスタンドバーで一緒にビールを飲み、笑いの多い三十分ほどを過ごした。父親ほどの年齢のミトワさんのあまりに若々しい情熱に驚いたのがつい昨日のことのようだ。
 私はいま、ミトワさんに保持された「骨」のような小説が書きたいと、切に思う。

2017/09/02  映画「禅と骨」パンフレット

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