庭先に木瓜(ボケ)が、みごとに赤く咲いている。木瓜の花の、無邪気で爛漫な様子は、以前はどうしても「痴呆症」を想起させた。痴呆症を「ボケ」と呼んだとき、人はやはりこの花を想い描いたのではないかと、疑いなく思えたものだ。つまり多少のトゲはあるものの、それは人を明るくする無邪気さに溢れていた。
ところがこのところ、この病態は「認知症」と呼ばれることになったらしい。
ボケてくれれば突っ込みもできるが、これでは全くとりつく島がない。認知不全症というならともかく、認知症では意味も通じないではないか。
以前、分裂病が統合失調症と改名されたときは、「むむむ」と唸って感心したものだ。もともと一つのものが分裂したのではなく、八百万的な自分が統合しきれない状態だというのだから、これは認識としても優れている。ああ、見事な命名をしたものだと、感銘を受けたのである。
しかし大抵の場合、こうした命名については感心するよりがっかりすることのほうが多い。いや、がっかりどころか、今回の認知症などは認めようがない。
これは例えば、呼吸に問題がある症例を呼吸症と呼び、色弱や色盲などを色素認知症と呼ぶことに等しい。はっきり云えば、日本語に対する冒涜であるだけでなく、そこには欺瞞さえ感じる。つまり表現上の刺激を減らそうとするだけで、そこには却って底意地の悪い差別を感じるのである。
思えば、本来の日本語に具わっていた深い認識や愛情を感じ取れないまま、安易に差別語にされ、無惨な表現に変えられてしまった言葉は多い。たとえば「びっこ」。
本来これは「跛行(びっこう)」だから、傾いて歩く状態を指す。何らかの原因が取り除かれれば復元することが容易に推測できるのである。「めくら」も同じく、現在視界がはっきりしないだけで、これも現状を表現したに過ぎないのである。
ところが、差別はやめようと浅知恵を働かせて考えたのは「歩行障害」と「視覚障害」。しかも多くの場合、これは「○○障害者」という人そのものへの表現になる。
「障碍(礙)」ならまだ分かる。「碍(礙)子」が電流を妨げる物体であるように、今妨げになっているものも、やがては取り除かれるはず、という思いがそこには無意識に込められているからだ。
しかし「障害」はイケナイ。「害された」というのは、なんだか決定的なイメージを植え付ける言葉だ。純粋に言葉として見るなら、「びっこ」や「めくら」のほうが余程差別性は薄いのである。
こうした奇妙な言い換えの例は、ほかにもたくさんあるのだが、今回の「認知症」だけはちょっと耐えられない。
なにも私は、「認知症」の人々を貶めるつもりではない。純粋に言葉の問題として受けとめていただきたい。
以前、有吉佐和子さんが「認知症」の人について『恍惚の人』という小説を書いた。恍惚は本来、『老子』に登場する分別以前の渾沌たる状況のことだから、悪くない命名である。しかし今更これが一般化することも期待できない。
誰かもっとちゃんとした表現を考えてくれないだろうか。
2006/05/14 福島民報