あらゆる宗教の核に存在する「聖なるもの」を「ヌミノーゼ」と名づけ、その非合理な二面性を指摘したのは、ドイツの宗教哲学者、ルドルフ・オットー(1869~1937)だった。オットーによれば、人はその「聖なるもの」の前でまず戦慄する。
しかし不思議なことに、戦慄すべき対象は同時に人を強烈に魅了するというのである(岩波文庫『聖なるもの』オットー著、久松英二訳)。
そのような非合理な感情の共存に宗教の原点を求めるならば、漆こそ、まさに「聖なるもの」と呼ぶにふさわしい。
わずかに触れ、また人によっては触れなくとも、近づいただけで強烈な発疹とかゆみが起こる。一度発症して苦しんだ人は、その忌まわしい記憶が鮮烈なせいか、あの過度を曲がると漆の木があると聞いただけで、近づくにつれて発疹が出てかゆくなるという。本当はそこに、漆の木などなくとも、である。
これこそまさに霊力ではないか。古代の人々が畏怖したのは当然だろう。悪霊、あるいは紙のたたりと思う人も多かったに違いない。しかも日本人は、縄文時代から漆を接着剤や塗料として用いる中で、早くからその美しさにも気づいていた。ベンガラ(酸化第二鉄)や辰砂(しんしゃ・硫化水銀)などの赤色顔料を用い、しかもその発色をより鮮やかにするため、生漆(きうるし)を丁寧に攪拌し、加熱して酸化させ、また布で漉すなどの技術も開発した。その結果漆は、じつに堅牢で美しい赤色の皮膜となり、縄文の人々にとっての「聖なるもの」を現出させたのである。
のちに大陸由来らしい黒色漆が現れ、弥生時代以降はむしろ黒色が主流になるわけだが、ここで私は、赤色漆を丁寧に塗り重ねた「糸玉」のことを考えてみたい。
縄文時代の後期から晩期、それは北海道・東北・北陸を中心に出土するのだが、私が見たものは福島県立博物館の展示品で、約二千四百年ほどまえの荒屋敷遺跡(福島県三島町)から発掘されたものだった。
おそらくは苧麻(からむし)と思われる細い糸が、鮮やかな赤色漆で丁寧に塗り重ねられ、しかもその糸束がどれもクルリと結ばれている。全体として小指の二関節以内程度の大きさ太さなのだが、これがいったい何なのか、まだわかっていないのである。
まず憶いだしたのは、同じ時代の中国の『老子』八十章に出てくる「人をして復(ま)た縄を結んで而して之を用いしめ」という文章である。ここで老子は小国寡民の思想を唱え、文明の利器も言葉も使わず、昔のように縄を結んで意思疎通をはかることを勧めているのだが、金谷治氏はこの部分を「縄を結んで文字の代わりにし」と訳している。また『易経』繋辞(けいじ)伝には「上古は縄の結び目をしるしとしてそれで治めた。後世、聖人はそれを改めて書契を使うようになった」とある。
文字の代わりに「結び」に託した思いとは、神託だろうか。これほどの手間暇をかけ、しかも貴重品だった漆を何度も塗り重ねている以上、日常的な内容ではないことは確かである。
「結び」から連想するのは、『古事記』の神(かみ)「産巣日(むすび)」神(のかみ)や高御「産巣日(むすび)」神(のかみ)にも見られるように、「産みだす力」である。そう思うと、赤い糸玉は水引の原型と見えなくもない。たとえば部族長の娘などが、婚姻の約束を取り交わす場合など、いわば結納品代わりにこの糸玉を取り交わすようなことも、考えられなくはない。
赤はどうしても太陽を想わせるし、毎朝再生してくる輝きはそれだけで信仰の対象でありえたはずである。戦慄すべき力を秘めた漆に太陽の赤が加われば、それは強烈な呪力や魔力を発揮しただろう。婚姻が約束どおり果たされ、しかも「結び」の力で元気な子供が生まれることも併せて祈ったのかもしれない。
最も古い九千年前の漆の使用例を眺めていると、しかし別な考えも兆してくる。北海道の垣ノ島B遺跡から出土した死者の衣装には、同じベンガラ粒子の顔料による赤色漆が塗り重ねられているのだが、これはエジプトの死者へのベンガラ塗布同様に、明らかに死者であればこそ施された処置に思えるのである。
魔除け、あるいは輪廻を前提にした再生への願いが込められていたのかもしれない。
そういえばこの国では、近代になってからも、幼児の死者の場合は庭先に埋めることがあったらしい。やがて再びこの家に戻ってこいという祈りを込めて、である。
我が子の死は、いつまで経ってもなにかの間違いに思える。それは古今変わらぬ親たち共通の心理だろう。いかに手間暇がかかり、貴重な漆やベンガラであっても、その呪力に期待して再生を祈らずにはいられないのが親の情ではあるまいか。
そう思ってあらためて「糸玉」を見ると、それはまさに死んだ子と母親を繋いでいたヘソの緒に思えてくる。縄文の人々は、もしかするとヘソの緒そのものに「結び」の力を見取っていたのだろうか。
考古学の専門学芸員である森幸彦氏は、弥生時代になると漆がどんどん権威を象徴するような使われ方になってつまらないとおっしゃる。同感である。荒屋敷遺跡ではまだ水田耕作も中途半端な段階だったらしく、それだけに人々にはまだ争いもほとんどない。人生における切実な祈りだけが祈られていたような気がするのである。
ちなみに同じ頃の中国は春秋戦国時代、『史記』によれば荘子は宋の国の漆園吏だったとされる。つまり漆はすでに国家の管理する貴重品であり、たぶん「糸玉」のように普遍的で切実な聖性は、もはや示せなくなっていたのではないだろうか。
2010/11/02 ふくしまうるし物語(会津・漆の芸術祭)