これまでの五十七年の人生を振り返ったとき、今でも鮮烈に憶いだすのは初めて「自分も死ぬのか」と知ったときの悲しみである。
悲しみというより、それは今回の東日本大震災における津波のように、まったくどう受け止めていいのかわからなかった。経験のない感情は、感情として処理することもできないようだった。
ふいに襲ってくる訳の分からない何者かに堪えかね、ただおろおろ昼といわず夜といわず泣いていた。父や母、そして学校では先生にも「僕も死ぬの?」「死んだらどうなるの?」と訊ねるのだが、どうやら死ぬらしいとは知ったものの、その後のことはわからない。
私が生まれたのは寺であり、当時は火葬も土葬も普通にあったから、私は自分のからだが土の中で腐敗したり、火中で燃える様子などを交互に思い描き、怯えたり泣いたりを繰り返していたのである。
あれは確か、小学校二年か三年のときだったように思う。当時の子供の遊びはなかなか残酷なもので、昆虫採集ばかりかカエルの尻に2B弾という花火を突っ込み、爆殺するような行為さえしたことがあった。殺生は平気で、いや平気ではなかったからこそ面白がったのだろうが、まさかこの自分が死ぬとは思ってもみなかったというわけである。
こうした話は、じつは宗教者の幼少の頃を彩る典型的な物語でもある。あとになって知ったのだが、偉大な宗教家はけっこう子供の頃に死に怯えて泣いたりしているのだ。
我が臨済宗の白隠禅師などは、風呂場で薪が燃える音を地獄の釜ゆでの音と錯覚して泣いたというが、後世、地獄への怯えが自らを仏道に導いたとして「南無地獄大菩薩」などと大書するのである。
私など、泣くだけ泣いて凡庸な僧侶になっただけなのだから、じつに始末に負えない。
自分なりに当時の怯えを分析すると、なによりそれは使い慣れない「意識」を絶対化しすぎたせいだったように思える。からだが腐っても火に燃えても、そこには変わらず「私」という意識が想定されている。ありえないことだと今ならわかるが、当時は生きている現在の「意識」のまま、腐ったり燃やされたりを経験すると思っていたのである。
それでも子供の思いはめまぐるしく変化する。よく子供たちの宿泊合宿などで遭遇するのだが、「和尚さん、どうして毛がないの?」などと訊いてくるから、小洒落た返事を考えて振り向くと、すでにボールを蹴って五メートルも離れ、歓声をあげていたりする。
真面目に考えるだけ無駄、とは言わないが、とにかく彼らの思いは返答を待つヒマもなく変わりつづけるのである。
もしかすると、彼らは犬猫にも似て、感情を直接把握する器官を持っているのだろうか。本気でそう思うこともある。
私が死に怯えたときも、少年だった私はけっして誰かから正しいと思える解答を得たから収まったというわけではない。今でも忘れられないほどの言葉による解答は、結局誰からも得られなかった。最近は、子供の質問に必死に答えようと苦しむ先生も多いようだが、子供が求めるのはけっして矛盾のない言葉ではない。そのことは承知しておいたほうがいいように思う。
しかしそれならどうして収まったのか、というと、なんだか知らない「安心」の波動のようなものを、直接母などから感じたからではないか。「安心」というのは、簡単に言えば「明日も太陽が昇るんだから」という感じの無根拠な楽観である。あるいは、太陽そのもののような放熱と言ってもいいかもしれない。要はなにも言わず抱きしめるほうが、むしろ「安心」の波動を発する道理である。
最近の大人は、子供の不安や怯えに寄り添って、などと考えることが多いようだが、技巧も知らずに寄り添われると、却ってその重さに押しつぶされることも多い。泳げない人が溺れかかった人を助けに行くようなもので、共倒れになる危険性が非常に高いのである。
むしろ「どうしてそんなこと気にするのかしら、ばっかねぇ」的な脳天気な対応のほうが、救われたりすることは、覚えておくべきだろう。「あ、そうか、なんだかぼく、ばかばかしいこと考えてたのかな」。子供はまだ「意識」を使い慣れていないから、後悔して引き返すのも吝かではないのだ。
うっすらとした記憶だが、私は何かの出来事をきっかけに死を怯えなくなったのではなく、結局いつのまにか気にしなくなっていき、子供なりに他の遊びや学びが忙しくなっていったのだと思う。まぁ、だから偉大な宗教者にはなれなかったわけだが、それが普通の「なりゆき」ではないだろうか。
ところでこの稿で問題にすべきなのは、「死にたくない」という怯えのことではなく、「死にたい」という欲求とも言いにくい心の傾斜についてである。
むろん、それは承知で書きだしたわけだが、私としては以上述べたような事態で、楽観的であれ「寄り添い型」であれ、とにかくその子に向き合ってくれる大人が近くにいさえすれば、「死にたい」などと思うことはないような気がする。もともと死を怯え、死にたくないと感じているわけだし、安定的な支えさえあればやがて興味も他に移っていくはずである。
怯えるままに一切支えてもらえない状態は、おそらく高所恐怖症の人が谷底を見続けるみたいなもので、吸い込まれる恐怖心で、体がむしろ恐ろしいほうへと動きかねない。嫌がるからそうなってしまう、という不思議なことが、時に人間には起きるから困るのである。要は目線が逸れること、気にならなくなることが大事なのであり、子供らしく興味が他に移ればしめたものである。
死に怯えた小学校低学年の頃の体験は、私の場合はほどなく意識にも上らなくなり、実際に五年生のときには祖父の死に遭ったのだが、私には従兄弟との久方の逢瀬の楽しさのほうが強く記憶に残っている。そして死は、「死にたい」とか「死にたくない」などの欲求としてではなく、むしろ遙か彼方にぽっかり開いた暗い穴のように、厳然たる事実としてその姿を現したのである。
私の場合幸いなことに、死にたいと思ったりすることは、学生時代にはほとんどなかったと思う。初めてそう感じたのは二十四、五歳のときだが、それは死にたいというより、気がつくと暗い穴の淵に佇んでいた、という感じだろうか。
それについては後述するとして、ここではまず、中学三年のときの日本脳炎体験に触れておかなくてはならない。
暗い穴にリアルな恐怖を感じるまえに、私は意識不明の四日間を通じ、その穴がどうやら向こう側に通じていることを感じてしまった。私の死への恐怖は、その体験を通じて一気に減衰したといえるだろう。恐怖の減衰、というのも妙な言い方だが、それは「ああ、繋がってるんだ」という感覚かもしれない。
私はいわゆる「意識不明」と言うしかない記憶のない時間を体験したのだが、その時にも看護師さんなどとは話していたようなのである。記憶がないにもかかわらず、話していたということは、そこに働いていたのは「別な意識」ということではないか。「電話が鳴る」「電話が鳴っている」と言い続けた私には、たぶんその時には電話の音が聞こえていたのであり、枕元に持ってきてもらった公衆電話でも、実際受話器を握ってなにか話していたという。
チャンネルが変わった、と認識するのがいちばんわかりやすいだろうか。たぶん記憶が繋ぎとめる現実というのは、同じチャンネル内部の情報にすぎず、それが変われば別な回路なので認識できない、そういうことではないだろうか。
後に「変性意識」という言葉を知ることになるのだが、少なくとも死に向かう途中の意識は、意識そのものの在り方が大幅に変わるのではないか。私はこのときの体験から、そんなふうに思うようになった。そして結局死とは、幾つものチャンネル変換の後に来る、それでも何らかのチャンネルに違いないと思うようになったのである。「繋がっている」と言っても、双方向に出入りできるわけでもなさそうだし、実態がよくわかったわけではない。しかしとにかく私にとってただ黒々と深そうなだけだった暗い穴の中には、どうも階段、あるいはエレベーターのようなものがありそうに思えてきたのである。
さて、知らず知らずに穴の淵に佇んでいた暗黒の青春時代に話を移そう。
私はその頃、簡単にいえば僧侶になるか作家になれるか、時間的にもギリギリの処に立たされていた(と、思っていた)。
「僧侶になる」ほうは、決意して道場に入門すればそれで済む(と、思っていた)ものの、「作家になれる」かどうかは、とにかく作品を書き上げ、世に認められなくては始まらない。たまたまある雑誌の新人賞で最終選考に残り、なまじな望みをもってしまったため、書けない現実がとにかく辛かった。書ける時間だけは確保しようと、当時は収入のためには中国語辞書の翻訳に携わる程度。しかし翻訳というキリがない作業は、思いがけず私の書くべき時間に浸潤してきた。父親とは、二十七歳までに作家としてモノにならなければ出家する約束になっていたから、とにかく毎日長時間机に向かうのだが、書いては消し、消しては書き直し、そして焦りながらも途中で破るという連続だった。
どういうわけか、眠ると金縛りに遭った。いつも夢のなかで体がどんどん動かせなくなり、あちこちから毛が生えてくるイメージに魘された。最後は首から顔まで毛が生えてきて、全身が真っ黒い毛で覆われる。するとしばらくして急に視点が体の上空に飛ぶのである。そのときの何ともいえない無力感が忘れられない。
夜中じゅう起きていて昼過ぎまで眠るような暮らしのなかで、私もインスタント食品などは食べていた。時には買い物もして自炊した時期もあったはずだが、とにかく食べたものや買い物した店など、いや、駅からアパートまでの道程さえ全く覚えていないのである。
机に向かいながら書けない分だけ自分の皮膚を引っ掻くようになったのもその頃である。明らかに精神的に病んでいたのだと思うが、作品さえ出来ればすべては見違えるように動きだすと信じ、とにかく机にしがみついていた。
たぶん病的に視野が狭くなっていたのだと思う。その頃の私は頻繁に「死」を想った。まさに「死にたくなる……」という心境である。睡眠薬を酒で飲み、わざと量を増やしたりすることも多く、そんなときは暗い穴の淵を散歩するような気分だった。しきりに友人や家族の笑顔が浮かんだが、家では引っ越し先が分からず警察に捜索願を出そうとしていた。
その状態で思い描く「死」は、まったくの「無」というものではなく、穴の中の階段やエレベーターをその先へ進むことだった気がする。だから尚のこと、当時の「死」は恐怖や忌避の対象であるより、やけに親しげな「デミアン」の様相であり、別れるのにずいぶん苦労したのである。
ここで結論として求められているのは、そうした「死」への誘いをどうして抑え、どのように決別するのか、という方策だろうと思う。しかし私の場合、どうも一般化できる答えはもっていないような気がする。私は父との約束に従い、なんとか寺に戻って道場に入門することになった。この父との約束、というのが抑えになった部分は確かにあるが、それとて破ることも可能だったはずである。
少しだけ一般化すれば、物事は「縁が実り」、「機が熟す」ことで初めて叶う。目標にもよるが、期限を定めない目標は、あまり持たないほうがいいということか。
単純な因果律が自分を追い詰めるのだが、世界はそのようにはけっして動かない。むろんその時は、そうは思えないほど視野狭窄になっているわけだが、これも普段から深く認識しておいたほうがいい。人は壁を乗り越えて進んでいくのではなく、あるときふと壁が見えなくなり、以前からすれば嘘のように楽々と進んでいくのだ。
実際、道場に入門してからの私がそうだった。入ったのが「禅」の世界であることも大きかったが、大雑把に言えばそれは「いのち」そのものに向き合い、それを妨げている「私」を徹底して切り捨てる世界である。「死にたい……」という気持ちはむろんのこと、「私」がさまざまに「いのち」を邪魔していたと、すぐに気づくのである。「いのち」の能力を、「私」は常に見くびっていたとも思えるはずである。
その後の私は、二者択一でとことん悩んだ僧侶と物書きを、結局は両方している。いや、これが「結局」になるかどうかはまだ分からないのだが、とにかく今は両方しているのである。
「縁」や「機」と呼ばれるものが合理的には分からない以上、「なりゆき」を生きるしかない、というのが基本的スタンスである。常に変化しつづける「なりゆき」を生きるとは、波乗りのようなものかもしれない。波乗りにも危険はあるが、今は「死にたい……」とは思わない。五十年以上かけて、少しは「こころ」の馬鹿にし方、「からだ」の用い方が上手になってきたのだろうか。しかし「いのち」のことはまだまだ分からないから、このまま「なりゆき」に任せて生きてゆきたい。
2014/05/01 こころの科学 2014年5月号