講談社は日本最大の出版社。みんなも数々のマンガや雑誌などで、きっとおなじみだろう。その講談社が昨年十二月に創業百周年を迎(むか)えた。めでたいことである。創業時のスローガンは「おもしろくて、ためになる」だったという。ぼくはこの言葉をきいて、ぽんっとひざをたたいた。
そうなのだ。この順番でなくてはいけない。これが逆に「ためになって、おもしろい」だったら、決して東京・音羽(おとわ)のちいさな出版社は、日本一に成長することはなかっただろう。小説はためになるより、おもしろいほうが断然(だんぜん)重要だ。言葉の順番というのは、かくも厳格(げんかく)なのである。もちろん、より重要なほうを先にする。みんなも作文なんかを書くときは、よく注意してください。
講談社では百周年記念として、書き下ろし百冊の出版が進行中だ。豪華(ごうか)なラインナップだけれど、今回はそのなかから玄有宗久さんの『阿修羅』をとりあげよう。解離性(かいりせい)同一性障害というと、なんだかよくわからないという人が多いだろう。でも多重人格といえばスリラーの題材としてはかなりポピュラーだ。そうした作品のなかでは、この病(やまい)の実態からほど遠い興味(きょうみ)本位なあつかいが多い。作者はたくさんの資料を読みこみ、臨床(りんしょう)の現場を踏(ふ)んで、信じるにたりる魅力的(みりょくてき)なヒロインをつくりだした。
中堅(ちゅうけん)出版社に勤める田中知彦(ともひこ)の妻・実佐子(みさこ)は結婚三年目。このところ頭痛や幻聴(げんちょう)に悩まされ心療(しんりょう)内科に通院している。静養のために訪れたバリ島のホテルで、実佐子の表情が豹変(ひょうへん)し、まったくの別人になる。なんと身体(からだ)つきさえ変わってしまうのだ。第二の人格・友美(ともみ)の出現だ。地味なワンピースの水着を脱ぎ、黒のビキニに着替(きが)えた奔放(ほんぽう)な妻を、知彦は呆然(ぼうぜん)と見送るしかない。
危機感(ききかん)を覚えた知彦は東京の精神科医・杉本に国際電話をいれる。容態(ようだい)の悪化を心配した杉本はすぐバリ島に飛ぶ。しかし症状(しょうじょう)は急激に進行し、豪雨(ごうう)のジャングルのなか第三の人格・絵里(えり)があらわれる。この場面は、ふれてはいけないなにかにふれるような、ざらりとした恐(おそ)ろしい手ざわりがある。一行は日本にもどり、すぐに実佐子の入院と治療(ちりょう)が始まるのだが、ひとりの女性のなかに同居する三人の人格はいったいどうなってしまうのか。また夫との結婚生活を続けることは可能なのか。
そんなふうに若い夫婦のいく末を想像するようになったとき、読者はがっしりと小説の世界にのみこまれている。三面六臂(さんめんろっぴ)の阿修羅像が三重人格の原型的なイメージとして描かれるのだが、合掌(がっしょう)した両手を押し合う争いの手と解釈(かいしゃく)するイメージの飛距離(ひきょり)に、ぼくはうなった。
人の心の不思議、意識と無意識の一筋縄(ひとすじなわ)ではいかない関係、人格という謎(なぞ)に胸を打たれる作品です。人格=パーソナリティの語源(ごげん)は、ペルソナ=仮面であるという指摘(してき)で、氷を押し当てられたように、ぼくの背中はひやりとしました。あなたは最近うまく仮面をかぶれてますか?
2010/01/09 読売新聞