時の在りか 愛とは被曝し合うこと

 先週、放射能汚染土の袋があちこちに積まれる福島県の原発被災地を訪ねた。国内の新聞・通信・放送記者らによる日本記者クラブ取材団に参加した。現地で暮らす3人の話を紹介したい。
 昨年3月、1地区を除いて避難指示が解除された飯舘村(福島第1原発から北西40キロ)の菅野典雄村長(71)。在任6期目のやり手だが、帰還と復興の進め方に「強引」「国や東京電力とべったり」などの批判も多い。
 記者会見では平昌冬季五輪の金メダリスト、羽生結弦の
 「けがをしてなかったら金メダルは取れなかった」
 というセリフを借りて
 「震災に遭っていなければ、こんな村づくりはできない」
 と意気込みを語った。確かに誤解されやすい人である。

 震災後に設置された原子力規制委員会の初代委員長を昨年9月まで5年務めた田中俊一氏(73)。福島市生まれで退任後、飯舘村に居を構える。原発再稼働を巡り「しょせん原子カムラの住人」と攻撃もされた。
 キノコを賞味する文化は福島の人たちの生きがいにも等しいが、セシウム含有量が高い。田中さんは取り組みの一つとして
 「どうしたら食べられるか、食べたらどうなるか教えたい」
と例示した。近く自分で原木から栽培を始めるという。

 原発の西45キロ、滝桜で知られる三春町で生家の禅寺を継ぐ芥川賞作家、玄侑宗久さん(61)。震災から7年かけて書き下ろした最新作「竹林精舎」(朝日新聞出版)は、古里でもない福島の放射線量が高い山寺に、20代の男女が移り住むまでの恋愛物語だ。
 もちろん若者たちも苦悩する。行きつ惑う小説の中ごろに
 「愛し合うって、被曝(ひばく)し合うことだよね」
というか細いつぶやきがあり、読後も余韻を引く。
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 反原発の立場では、名前を聞くだけで拒絶感を抱く人もいるようだ。それでも3人の言葉に耳を傾けたい。考え方の違いはあれ、現に福島で生きている人たちへの敬意と礼節は、科学や人権を超えてわきまえるべき態度だと思う。3人は別々に同じ認識を語った。
 復興について。イメージは人により異なっても、震災前の生活が戻ることはない。
 放射能について。恐れを言う人は、線量数値がどうであれ帰る気はない。戻れない、戻りたくない人より、そろそろ新しく来る人に望みをかけられないか。
 科学について。あいまいさとリスクは残り続ける。今の議論は思想信条の表明になっている。
 原発について。賛成・反対は単純な問題ではない。
 言論について。言ってはならないことが多すぎた。
 玄侑さんは政府の東日本大震災復興構想会議委員として
 「チェルノブイリ原発事故でも牛や豚を殺さなかった」
 と抗議したが聞き流され、避難所になった寺社への助成を訴えたら、壁際に並ぶ官僚から
 「信教の自由」
 とヤジられたという。やがて会議1時間前には別室で、官僚たちからなぜできないか事前に説明を受けるようになった。
 田中さんはセシウムの食事摂取基準が、世論に迎合した政治主導でゆがめられたと憤慨する。
社会的発言力の大きい2人でも無力感にさいなまれている。
 当時、私はスイスのジュネーブにいた。国連軍縮会議の核政策専門家や世界保健機構(WHO)への取材で、放射能被害の科学的とされる国際基準がいかに政治的に決まるかを知り、大きな特集記事にした。反響は皆無だった。
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 では、希望はどこに。子供たちが福島で育つ、それに尽きる。3人は異口同音に即答した。
 飯舘村は村内に小中学校の校舎を新設し、4月開校を急ぐ。反対派からは「箱モノが先行する復興予算の膨大な浪費」批判も出るが、菅野村長は譲らない。
 玄侑さんは青少年支援基金の理事長を務め、田中さんは
 「放射能汚染の環境で生き抜く力を持つ子どもたちを育てたい」
 と体験型学習の構想を練る。
 血相を変えた異論が予想されるが、現に福島を生きる人たちにはすでに現状が日常であり、放射能とどう生きるかに日々向き合うことが人生となりつつある。
 玄侑さんは長編を何度も書き直す傍ら、短編を書き継いできた。
 「東天紅」は、原発10キロ圏内で要介護の妻と避難せずに亡くなる夫の意志された最期を描く。
 「光の山」は、放射能を浴びた土砂や木々や草葉を所有地に進んで受け入れ、積もり積もって不思議な光を発する山になる幻想的な寓話(ぐうわ)。実際に汚染土を引き取った檀家(だんか)がいたという。
 「祝福されるべきだと思う」
 玄侑さんは厳粛に微笑した。

2018/03/03 毎日新聞

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