日曜論壇 第23回

なんのための改名か!

 このところ、聾学校を「聴覚支援学校」と改名しようとして、当の聾学校の人々の反撥を招いている。つまり、彼らは「聾」という言葉に誇りさえ持っているのに、「支援されるべき」人々と見られたことでその誇りが傷つけられたのである。
 思えばこの手の言葉は、どんどん酷く改名されてきた。たとえば「聾」や「つんぼ」という言葉も、「耳を聾する」「つんぼになるほどの」大音声と云うように、本来誰にでも起こる「状態を示す」言葉だった。「めくら」も「びっこ」も、じつは「目がくらんで見えない状態」や「傾いて歩く状態」を意味したから、誰にでも起こりうるし、そこに差別的な視線はなかったのである。
 ところがこれが、いつからか「聴覚障害者」「視覚障害者」そして「歩行障害者」に改名された。状態を指す言葉から人物を限定する言葉に変わったばかりでなく、そこには「害」という嫌な文字が紛れ込んでしまった。もともとは「障害」も「障礙」と書き、いつかは取れる差し障りやつっかかりを意味した。しかし字が簡単だからといって「害」にしたのが大間違い。まるで「きずもの」のような意味が付加されてしまったのである。
 明らかに、こうした改名の背後には、欧米の「ハンディキャップト」という考え方が色濃く反映している。要するに神の似姿としての「スタンダード」に比較して、劣った人々という見方である。「スタンダード」そのものを認めない日本には馴染まない考え方が、安易な訳語めいた日本語で、無理矢理に流入してしまったのである。
今回の「聴覚支援学校」だって、ああ、サポートを訳したんだ、英語が先にあったんだと、誰もが思うに違いない。
 最近私は住職になり、そのため法務局に登記する必要が生じた。耳に馴染んだ「登記簿謄本」も必要だったので、これも求めたのだが、なんとこの「登記簿謄本」も改名されていた。新しい名前は「全部事項証明書」というのだが、いったいこれはどういう日本語だろうか。
 まず訊きたいのは、何の必要があって改名したのかということだ。もしや「謄本」の「謄」が難しすぎるから、円周率を三ぴったりにしてしまったのと同じように、簡単にしたのだろうか? しかし、たとえそうだとしても「全部事項」というのは簡単な日本語どころか日本語でさえないのではないか。
 いったいどうしてこういうことが起こるのだろう。日本という国柄も日本語も理解しない人間が、そういう言葉を作る権力を持っていることを、私は心底悲しむ。英語を訳してそのまま使えば洒落ているとでも思うのか、その感覚が日本や日本語を壊していることに、気づいていただきたい。

2008/04/13 福島民報掲載

タグ:

トップへ戻ります