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インタビュー「まわりみち極楽論」のすすめ

二者択一の人生から下りる

 サブタイトルが「人生の不安にこたえる」。『まわりみち極楽論』は、まさにこの世の闇に悩む人たちへの力強いアドバイスです。とくに右肩上がりで人間も成長し、アイデンティティーを確立していくという「立派な生きかた」が不自由だという指摘にハッとさせられました。

 二者択一とか、ものごとを一途にやって突き進むという美学が、日本に限らないと思うんですけど蔓延しています。私も剣道をやっていたので、ためらうことにまったく価値を置いていませんでした。自分の内部でも戦って、アイデンティティーを確立していくという考え方を徹底的に仕込まれましたが、自分のなかにある無限の可能性を信じるのが宗教の基本だと禅を通して知ったのです。
 自分がどういう役柄で生きるかはそのときの周囲の要請や役目もありますが、常に自分が変化していく楽しみが、人生の楽しみでもあるんじゃないでしょうか。

 どこまでも勝ち負けにこだわる人生はよくないとも書かれてますね。

 人生五十年の時代は、ひとつにしぼって生ききるかたちでも良かったのですが、では退職後どうするか。現在自殺者は一九九八年以来、四年連続で三万人を超えています。日本においては、なかでも中高年の自殺が多いのはなぜなのか。
 自殺の起源のひとつが源平の戦いです。平家は水に飛び込み、源氏は腹をかっさばいた。源氏は東日本のマタギ系の文化に影響されていますが、要するに腹のなかは黒くない、赤心であるということを死をもって訴えているんです。死によって潔白を訴えて、最終的に勝つ。どこまでいっても勝負の延長なんです。だから自殺に歯止めがかからない。自殺は勝負に勝ったことになってしまいます。そういう考え方はもうやめたほうがいい。

意識の阿頼耶識に出会う

 窮屈な人生観を抜け出て、融通無碍な境地に達しているようですが、その人生観は禅の修業で得られたのですか。

 仏教では、遺伝子と同じようなものですが、人間の最も深層の無意識である阿頼耶識をなるべく多く発現していくことこそ、人生最大の喜びだし、生きている意味だと教えています。私は二十代で僧侶かもの書きか二者択一を迫られて行き詰まってしまいました。なまじ可能性があったからひっぱられたのですが、それは自分の可能性を信じているようで、自分を大いにみくびっていたんだと禅の修行で気づかされました。
 道場というまったくちがう価値観のなかに放り込まれると、ちがう自分が見えてきたんです。たとえば二日くらい眠らなでいられますが、その程度では許してもらえない。七日も眠らなくて死ぬかと思うと、そうはならない。それこそ自分の限界を超えて、今まで知らなかった自分がどんどん出てくるという体験をして、ああ自分をみくびっていたと思いました。ある意味で修行でいちばんつらいのは、阿頼耶識に出会うときなんです。ここまで来られるんだ、こういう世界が見えるんだという自分のなかに眠っていた無限の可能性そのものに出会う。そこでは幻聴幻覚もあります。それまで自分のアイデンティティーと思っていたものが覆されて、そうではないものがリアルに感じられる。やはり道場の修行体験で自分の殻を破れたのかもしれません。

 それから両方してこられたのですね。

 「荘子」では両行、物理学では相補性とも言う反対概念をともに行うという言葉がありますが、私は僧侶と小説を両方やってみるべきだと思ったんです。
 人間は意識のうえでは一つを選んで納得していますが、アーノルド・ミンデルによると、最期の昏睡状態のときに第二第三のアイデンティティーがボコボコわきあがってくるそうです。人間にはたぶん今の自分と別の自己を実現する欲求がある。そう考えると、自分を限定しすぎないことが大事です。若いときはエネルギーが拡散しやすいので、一つを選び取るのは方法論として必要です。でも方便で、仮に選んでこういう人生を送っていると思えば、自殺するほど思い詰める必要はない。そろそろ別の自分を……くらいの気持ちでいればいいんです(笑)。
 そして優柔不断、不徹底と言われようと、できるだけ多くの可能性を残しておくことがこれからは大切だと思います。

幸せより安楽を

 「反省すれば気が萎えるからフリをすればいい」とか「長い目で見れば人はウソをつけない」「自分に起こることはすべて意味がある」など、肩の力が抜けることがたくさん書かれています。こういう話は講演などでしているのですか。

 この本は、死とか老い、神様仏様、子供と大人、生きていく意味など、あらかじめ質問をいただいてその内容に答えるというかたちで執筆しましたが、半分は年間何十回もする講演の内容です。興味をもって聞いてくれた話を多く入れました。
 たとえば「桃的人生」の話なども解りやすいようです。梅と桃を対比して話すんです。梅は生まれたときなかった節やひねり、枝振りを獲得する儒教的人生ですが、桃はすべて備わっていたものが開いたという日本古来の邪気がない生きかたです。梅が進歩なら、桃は回帰です。じつは坐禅も桃なんです。年齢や男女、社会的立場もひとつずつ脱いでいって邪気のない境地になる。日本には桃信仰があったんです。そういう喜んでもらえた話を書きました。

 この本で幸せより安楽を追求したほうがよいと説かれています。お釈迦様は現世の楽をもとめて、死後のことは一切語られかったのですね。

 お釈迦様は幸せより楽を求めたのです。幸福は逃げ水みたいなもので、そこにたどり着くと見えなくなる。もっと向こうへ逃げて永遠につかまえられません。
 しかし明珠は掌にあり。すでに自分の手のなかにある。そのことに気づくしかない。そこにお釈迦様の説かれる安楽があると思っています。
 お釈迦様は、死後の世界について弟子たちがどう尋ねても決して答えていません。「十難無記」の「宇宙の果てはどうなっているか、宇宙の始まりはこうなのか」といった質問にも答えていません。意識レベルでそんなことを考えても無駄だというのがお釈迦様のメッセージなのです。瞑想体験で受容することを悟らせたいと考えていたのだと思います。
 では一般の人に対して、お釈迦様はどう答えたか。子を亡くして生き返らせてくださいとお釈迦様に言う母親に「村中を回って、死者を出したことがない三軒の家のケシの実をもらって来なさい」と言うのですが、暗くなるまで村中回っても死者が出なかった家は見つかりません。それで母親はどの家でもいろんな死を体験していることに気づいて子どもの死を受け入れ、意識を変容させて受けいれるんです。
 近代人にとって問題は解決すべきものですが、ここでは解決しないけれど受容して気にならなくなる。その延長に安楽があるのです。幸せは外的条件を変えようとすることですが、安楽はありのままを受け入れるということなんです。

 悩みをかかえた方の相談を受けるそうですが、どういう悩みが多いですか。

 途絶えないのは子どもの親ですね。不登校や摂食障害とか。私は基本的に自分が輝けば、周りも輝く。自分が楽しいとそれが人に移ると話しています。人を楽しくさせる、人を輝かせるのは余計なお世話というか、できないことです。
 小乗仏教は自分が悟りを開き、大乗仏教は他者救済を心掛けますが、要は悟りを得た人が山の中にいてはもったいないから町に出てきてほしいということです。それを悟ってもいないのに人助けすると、家庭崩壊になりかねません。
 ある意味で食事といっしょで、口まで運ぶことはできるけど、噛ませたり飲み込ませたりすることはできない。でも食べるのがおいしくて楽しいことを見せれば食べるはずだと思います。

 深刻な悩みの方もいますか。

 今、つきあっている青年は人を殺したいと一日一回は考えるそうです。妄想とわかっているんですが、その妄想とどうつきあっていったらいいのか。誰かに会うと、この人を殺すのかなと思うらしい。私はそう思う自分をまず認めてやるといいと話してます。認めたらやっちゃうんじゃないかと言いますが、認めるとおとなしくなります。
 チベット密教が典型ですが、瞑想中にうかびあがってくるいろんな自分を体験させるんです。なぜそんな寝た子を起こすようなことをさせるかというと、突然気づくと危険なんです。寝た子を意識させておくと、それでおとなしくなります。
 クラスにかまわれない暴れん坊がいるとします。その子を意識してあげる。存在を認めてあげるだけでおとなしくなるということと同じだと思います。

融通無碍の日本の仏教

 日本人は仏教はもとより、新約聖書から貪欲に都合のいい人生観を取り込んできたんですね。この本では、短歌、俳句、都々逸まで引用して、自由な境地について語っていますね。

 禅がもっとも大切にしているのが自由、それも飛び抜けた自由なんです。それに対して幸せは不自由な概念です。中国には福禄寿という、子孫繁栄、長寿で金持ちがいい、つまり多ければ多いほどいいという考え方がありますが、それではきりがありません。でも自由には、どう考えてもいい自由、どう意識してもいい自由があります。誰にも侵されずに、どういうふうにも考えられるという心身状態。これこそ最大の安楽ではないでしょうか。
 われわれの精神活動はコンセントレーションとリラクゼーションを繰り返しているわけですが、それをトレーニングするのが坐禅です。坐禅はコンセントレーションのイメージが強いのですが、慣れると、きつくてもリラクゼーションができるようになってきます。修行では一年間毎日数時間以上坐って、厳しいときは二十時間も坐ってます。動けるのは掃除をするときだけ。そうなると動けるから掃除がうれしい。こんなこともうれしくなるということが、たくさんある。つきあう相手は自分しかいないから、自分の体の可能性を楽しむしかない。二十時間以上坐っていると、こう思えば本当に体がこうなるという意識と身体の連動性を痛切に感じます。リラクゼーションだけが安楽ではなく、リラクゼーションとコンセントレーションが自由に出入りできるところまで行って安楽になると思います。

 「自分自身と向き合う」「体は言葉にしたがう」などの項目は、そういう修行体験で得たことも含まれているのですね。「死」に関する話も多いですね。

 やはり僧侶には死について考えている人が多いですね。私も小学校低学年のとき、毎晩死を想って泣いていました。死んで体に蛆がわくイメージや土葬や火葬とかいろいんことを考えていましたね。身内が死んだのは小学五年のときですから、家族の死に遭ったわけではないのですが、生家が寺なので周辺で見聞きしたことが多かったせいでしょうね。

 今の日本で仏教が期待されブームになっているようです。それに対して現役の僧侶としてどうお考えですか。

 期待は感じます。でもそれは仏教の教義が期待されているのではなくて、日本の宗教構造のあり方が仏教を親しみやすくしているんだと思っています。八宗が並立して横断している。アイデンティファイするのと反対の構造があるんです。そもそも仏教は奈良時代からユナイトしないで、テキストがお寺によってちがうという無節操なことが行われています。東大寺で唯識も華厳もしています。
 膨大になりすぎた経典を解釈するテキストを指定するところから、中国では宗派という区別が始まったのに、日本の宗教は寛容というか、無節操にヤオヨロズ的に重要な価値観を取り込んでいます。
 日本の仏教はそれだけ豊かなんです。正しいものはひとつじゃない。アイデンティティーだけが自己ではないという考え方は、端的に仏教に現れています。
 そもそも特定の宗派に属している私がこうやって自由に小説を書いて批判されないほど寛容なんですから(笑)。

 日本的仏教が興隆しそうですね。

中世には科学と神学のせめぎあいがあって、科学は神学に従属せざるを得ませんでした。現在は宗教的価値観がいかに底知れないか見直されていますが、中世の神学のように知ることを妨げることはできません。ソフィアをだいじにしながら信じるしかないものを意識していくしかない。しかし日本の仏教はこれまでインテリジェンスをリードしてきた歴史があります。もともとお寺は学校でもあった。そういう面からも日本では仏教はますます期待されるんじゃないでしょうか。

2003/6 一冊の本掲載

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