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妻の母の死を看取った体験から アミターバは光に満ちた死後の世界

 刊行後、読者から、死に対するイメージが変わったという反響が多数寄せられましたが、そもそもこの小説をお書きになりたいと思ったきっかけは何だったのでしょうか。

 『水の舳先』というはじめて単行本になった作品があります。そこでは死にゆく人間に残っているコミュニケーション欲というものを描いたのですが、死の瞬間は最後の五行で描きました。今回の『アミターバ―無量光明』では、死の瞬間とその前後を真正面から描きたかったんです。

 アミターバとは聞きなれない言葉ですが、一言で言うとどういうものなのでしょう。

 サブタイトルにありますように、量り知れない光明の世界のことなのですが、仏教的には浄土ですね。死後という何だか分からない世界については、それぞれの宗教にいろいろなヴィジョンがありますね。みなさんがご存知の阿弥陀如来は、じつはアミタ-バを象徴する存在なのです。その、死後に行くかもしれないアミターバという世界自体をあらためて見てほしいと思ったのです。私自身、ここに描いたものに近い世界がたぶんあると思っています。

 この作品には、さなざまな臨死体験資料や宗教体験とともに、実際に、奥様のお母さまの死を看取った体験が生きているのですね。

 妻の母とは何かうまが合ったというか、何でも話せたんです。じつは病床で母に「そろそろお迎えが来るんやろか」と訊かれたのですが、そのとき坊さんとしては「そろそろかもしれませんね」と言わなければならなかったのかもしれません。死には勝てませんし、死と折り合うというか、そのまま受け容れるのが阿弥陀如来ですから。でも実際は、「そんな弱気でどうするんですか。頑張ってください」と言ってしまいました。死んでアミターバに入ることを言えなかったのです。だから、小説でどうしても書きたかったのです。宗教を宗教的用語を用いずに語りたい、と常々思っていましたね。

 この小説は、ガンで闘病して三ヵ月後に死んでゆく年老いた女性の側からの語りですべてつくられていますね。普通の小説ですと、その女性が亡くなったところで物語が終わるように思えますが、死の瞬間を越えて、その向こうの世界に行ってもさらに、ひとつながりの意識での語りが、違和感なく続いている不思議さがあります。新聞にも「リアリズムの限界に挑んだ」という評がでましたよね。こんな小説は今まであまりなかったように思いますが。

 一般的なリアリティーからすると、難しいことです。仏教では「死を通り過ぎると意識は変容する」と言いますし。脳波がフラットになっても見聞きしている主体がいることは数多くの臨死体験から分かっていますけれども、死の前と後が同じ「私」であるとは限らない。そう考えると、死後も同じ「私」の意識が見ているというのはおかしいのかも知れませんが、そこはそうするしかなかった。小説的には「私」の感じた死後の世界を描写するしかないんです。

意識の混濁は時間をまとめることからの解放

 小説の中に、僧慈雲がお母さんの病床で、時間の混濁やドッペルゲンガーについて、アインシュタインや先端物理学までもちだして説明する場面がでてきますね。噛みくだいた言葉で語られるので分かりやすくて面白かったのですが、ああいう僧侶は実際あまりいないのではないでしょうか。あれは玄侑さんご自身なのですか。

 まあ、かなり本人に近いですけれど、私そのものというわけではありませんよ。今回、死後の世界というよく分からないものを描くために、宗教だけでなく現代物理学の成果も集めながらやりましたが、小説の中にうまく溶け込ませるために、ずいぶん苦労しました。
デヴィット・ボームという物理学者によれば、宇宙には目に見える明在系と目に見えない暗在系という二種類の宇宙があるそうです。その暗在系には、素粒子というエネルギーが霧のように存在して、自他の区別がなく、さまざまな時間と空間が混在しているらしいのです。それはまさに、仏典に描かれる極楽浄土と同じなのですね。

 そういえば、死が近づいてくると、老女の時間の感覚がだんだんおかしくなってきて、たとえば病室で寝ている今や、少し前の四国行きの最後のバス旅行や、少女時代が、時間の順序が滅茶苦茶に現れる感じを、じつにうまく描いていらっしゃいますね。こういういわゆる死の前の意識の混濁というものを、僧慈雲は「時間を並べ、その都度別な私を纏め上げようとする煩悩からの解放」なのです、とお母さんに言っていて、そこが大変興味深いのですが。

 これは、仏教的な考え方としてもあるものです。今と少し前の今は、本当はそれぞれ独立した瞬間なんです。人生はくくり切れないほどの不連続性に満ちています。因果はありますがそのすべては決して見えない。でも人は、自己というものに統一性をもとめるために、ありとあらゆる時間に連続性を求めます。そして自分に都合の良い物語をつくって、それによって自己認識や価値判断をしている。いわば時間を捏造しているんです。これが人間の最後の煩悩で、それからの解放が死であるという考え方です。アイデンティティーからの解放ともいえます。医学的には意識の混濁という言い方とは、ちょっと違ってくるのではないでしょうか。

 老女が死んで、光に満ちた死後の世界に発光しながら入っていくところの描かれ方は圧巻ですね。こんな世界に行けるのなら、死ぬのも恐くないと思ってしまいます。著者が実際に見てきたかのように描かれますが、なにか参考になさったことはあるのですか。

 実際に、死を目前にした方の目線を見ますと、たとえば相対しているのが私だとすると、その目線は私のほうを向いていながら、私を通り越した向こう側を見ています。その目が何をみているのか、それを書きたかったのです。阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経という浄土三部経のなかに、浄土は聞きたい音が聞こえ、かぎたい匂いをかぐことができる、エネルギーに満ちた世界だとあり、それと、臨死体験資料などを参考にして、光に満ちた死後の世界を描きました。

鼻歌をうたう天女

 ところで玄侑さんの小説の登場人物には、関西弁でしゃべる人物がよくでてきます。今回の老女の語りも関西弁なのですが、意図があるのですか。

 私自身、京都の寺で修行し、関西弁に親しんでいましたし、妻が関西の人間だということもありますが、関西弁だと深刻なことでもあまり深刻な感じがせずに語れるといういい所があります。

 入院中の老女が、いつもテレビで、みのもんたの番組や水戸黄門を見ていますけれど、そういう病院の日常もとてもよく描かれていますね。

 実際、母が入院していた時、病院では午後四時になるとみんな水戸黄門を見ていましたね。そこでは死なんか思いもしない日常が流れていて、なんとなく長生きする気分になれたりもする。まあ、そういう番組が好きだっていう人を私自身好きなんですね(笑)。

 主人公の女性は作中でよく鼻歌を歌いますね。

 鼻歌を快く思わない人たちがいますが、鼻歌って自分が自分の命を慈しんでいる感じがして好きなんです。まわりも癒しますしね。最初、この小説の題を「鼻歌をうたう天女」とつけたくらいですから(笑)。私も雲水のころ、作務をしながら鼻歌をうたっていて、叱られました。はりつめた空気をこわすから、当然なんですけれど。

 玄侑さんの小説には、いつも何かのメッセージを感じますが、この小説はどういう方に読んでもらいたいと思っていらっしゃいますか。

 帯にあるように、死を恐れるすべての人なんですけれども。じつはこの小説を書き始めた頃、末期ガンの患者さんと対談したのです。彼は、死の瞬間の前後に何が起こるか、死ぬ前にぜひ読みたいと言っていました。書きあげてすぐにその人に送りましたが、その人は読み始めて枕辺におきながら、最後まで読めずに亡くなったんです。あとで奥さんが読んで、心安らかになれた、安心したと言ってくださいました。だから、身近に死に行く人を抱えている方にも読んでいただきたいと思います。そうでない人も出来れば元気な時に読んで、いざというときに思い出していただきたいですね。

2003/6 波(新潮社)掲載

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