1. Home
  2. /
  3. インタビュー
  4. /
  5. 禅的生活のススメ 理屈の届かない世界を味わう

禅的生活のススメ 理屈の届かない世界を味わう

最新著作の『禅的生活』の中で説かれている「お悟り」に近付けるようになるにはどのようなことを意識して過ごしたら良いか、聞かせて頂けますか。

我々は普段、論理や計算、思考を掌る左脳を使う、いわゆる「左脳的な時間」を過ごしています。しかし、私はもっと「右脳的な時間」、樹木で喩えるなら枝・葉・花ではなく根のような、全てを包み込む瞑想的な時間も尊重すべきではないかと思います。『禅的生活』では、社会生活において重視される効率や価値判断から離れ、「役に立たない時間」、「理屈の届かない世界」を味わうことで、よりトータルに元気に生きられるのではないかと提案しています。

最近は、週末に自分が社長としてウィークデイとは別の仕事をする、「週末起業」への関心が強まっていると聞きます。しかし、本業で満たされないものを週末に補う、という目的であれば、むしろ全く別な世界で週末を過ごし、週明けには再び世間的な価値観の中へ戻っていく「週末出家」も面白いのではないかと思います。

禅における「労働」と「お金」の考え方

ご自身の活動を通じて、仏教や禅に対する人々の意識は以前に比べて変わってきているとお考えですか。

九・一一のテロ事件以来「正義同士のぶつかり合いは結局ああいうことになるのか」という意識が芽生えたためか、あるいは経済の停滞が続く中で身を擦り減らす人が増えているためか、最近仏教や禅を見直そうという方は増えてきているように思います。効率や利益が優先される現代社会において、それらとは逆方向のもの、一銭にもならないようなものに目が向けられてきているのでしょうか。

かつてヨーロッパでは、ルターやカルヴァン派の台頭とともに「神様が命じた仕事に一生懸命励めば神様は喜んでくださる」という考え方が広まり、労働重視とともにそれによる稼ぎも正当化され、信仰と両立するかたちで資本主義が発展してきました。他方禅は、仏教の中で最も労働を重視しており、その点では共通していますが、効率や結果が重んじられることはなく、また、お金を奉ることもありません。お金は風や「気」と一緒で溜めると腐ると考え、動かされなくてはいけないもの、社会の中を巡らなくてはいけないものと考えています。

日本においては、いざという時や余生のために「お金は貯めておかないと心配」という意識が一般的である気がしますが

日本では、「もしも~したら」とか、「いざという時」に備える、「保険」の考え方を意識し過ぎる傾向があるのではないかと思います。禅はこの保険の考え方と馴染みません。大切なのは「今」という足場にしっかりと立つことであり、「いつか良いことがあるだろうから今は我慢しよう」という考え方はしないのです。将来訪れるかもしれない「いざという時」も、その時点では「今」であるわけです。ただ現実問題として「こちらはそれでは困るんだ」と、ご家族に言われてしまうかもしれませんが(笑)。

また、「余生」という言葉がいつできたのかは分かりませんが、東洋では桃源郷にも畑があるくらいですから、いわゆる仏教的な世界観からすると、日本人は本来労働そのものに喜びを感じる民族、死ぬまで働いていたい民族だったのではないかと思います。日本人の人生観は、戦後の数十年で欧米の価値観の影響を受け、大きく変わってしまったかもしれません。

高齢化が進んでいく中で、「働くこと自体を楽しむ」という意識が広がってくると、労働やお金に対する考え方も変化していくかもしれませんね。

年をとること、人の一生の捉え方についても、「物事をテキパキと処理でき、計算もできて、論理的にものが言えるのが立派な人間」という欧米的な考え方からすると、どこかでピークが訪れ、それ以降は衰えていくという人生のラインを想定することになります。この考え方だと、年をとるのは非常に寂しいことに思えます。しかし東洋的には、年をとると神様に近いものの見方ができるようになると考えられています。そして、あらゆる情報を均等に眺め、全体を見渡した上で判断できるという一種「勘」に近い能力は、年を重ねるほど高まっていくとされ、最近は脳科学にも検証されてきています。人は死ぬまで成長し続ける、という見方ができたら、人生に対する考え方や姿勢も変わってくるのではないでしょうか。

何事も「方便」と思えば楽

現代の競争社会においては、企業も人も常に何かに追い立てられて、落ち着きをなくしているようにも見えます。禅は、そのような社会を変えていける力があるのでしょうか。

競争や比較は、価値判断する「ものさし」があって初めてできることです。『荘子』に「天釣(てんきん)」という言葉があります。こちらが良く見えたりあちらが悪く見えたりする、というのは人間の見方であり、「天から見れば全てが釣り合っている」という意味です。例えば、体が不自由で何もできない方であっても、対等の命として輝いているし、別な部分で必ず優れたところがある、結果としては釣り合っている、ということです。我々は比較せざるを得ない社会に生きていますが、本来人同士は比較などできないものなのです。もう少し遊びの感覚で数字を追いかけたり、方便と割り切って比較をする、という意識を持つことができたら、楽になれるのではないかと思います。

我々は戦争を通じて、戦前と戦後で「価値観が逆転する」という経験をしていますが、もしかしたら、この経済一辺倒の価値観も逆転することがあるかもしれません。その可能性があるということを知っておくと、たとえ失敗と思われることがあっても、本当にそれ「失敗」かどうかは分からないでしょう。「逆」に、一つの価値観の中でトップになっても、別の価値観ではビリかもしれないという意識を持っておく必要もあります。そうすれ「失意泰然・得意淡然」、失意の時も泰然と、得意の時も淡く、得意になり過ぎない状態でいられるのではないでしょうか。

本日は貴重なお話を有り難うございました。

2004/04 にちぎんクオータリー掲載

タグ: 働く, , 禅的生活