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トーハン 10月号 新刊ニュース

著者との60分『リーラ 神の庭の遊戯』

今回の作品『リーラ』は、飛鳥という自殺した若い女性をめぐって親族と関係者が、三年目の命日に花の影や飛んでいる蝶や無言電話などいろんな現象を通してその女性の存在をふと感じるところから始まります。玄侑さんはそういう現象や心の動きを否定しないで、その意味を追求しようとされている、と私は受け取りました。

あることをテーマに書こうと考えていると、どういう方法論にするべきかということが自然に浮かんでくるんです。『アミターバ』のときは死んでいく本人の目線を使うしかないという思いがあったんですけど、自殺に関しては亡くなった本人の気持ちをわかったように書くことはできない。ドーナツ状というか、真ん中の穴のところに本人がいて、それを取り囲む人たち、ここで言えば六人の人物の視点から自殺した人を順次見ていくという手法が、今回は自然に浮かびました。同じ人物から見た話が何回か出てきますから、ドーナツというより螺旋のようにそれが重なって、いわば神の視点に近づいていく。一人の人間では持ちえない視点を読む人に体験してほしいと思っています。

まず死んだ女性の弟・幸司から始まって、次に母親の政恵、ストーカーだった江島、倉田という飛鳥の男友達、彼は恋人とは言えないでしょうね。

恋人になっていれば状況は変わったかもしれない。中途半端な友達です。

それに幸司の恋人の弥生で、沖縄らしき島の出身と設定されています。そして最後が政恵と離婚した父親。飛鳥は自殺する前に会いに行ってるんですね。

この六人の視点から死んだ飛鳥を螺旋のようなかたちで照らし出していくんですが、入れ替わり立ち替わりで一章が三十枚くらいだから、短編連作のようなところがありました。いつも五十枚くらいまで行くと自分でも馴染んできて乗ってくるんですが、あの長さでインパクトを与えなければならないし簡潔さもほしい。最後まで気が抜けないで、普通の長編とはまた別な感じがありました。

読む方には同じ出来事を別な人物の視点から聴かされる面白さがあります。

例えば作中の暖簾一つにしても、倉田が見ると藍染めの暖簾なんですが、江島がみると紺色の暖簾としか見えない、二人の素養の違いなんですが、そこを校閲がいろいろ言ってくるんですよ(笑)。人間が違うんだ、この小説の狙いをわかってほしい。その辺は意図的に変えているんだからって言ったんです(笑)。読んでいるほうは次々変わっていくのが小気味よくて面白いかもしれないですけど、書く方はなかなかたいへんで、小説家もやっぱりサービス業なのかなって感じました(笑)。でも、今回はこの方法で書くしかなかったんです。

島の霊能者が重要な役割をしていますね。私も取材に行ったことがありますが、沖縄にはノロとユタという二種類の霊能者がいました。

私もこの小説のための取材で三人のユタにお会いしましたが、みなタイプが違います。それぞれお願いすることが違う。誰かを成仏させてほしいとか、亡くなった人に会いたいという口寄せ的なものとか、地鎮祭でお清めをしてほしいとか、この中に出てくるように落とした魂を戻してほしいというのもあります。

これまでの玄侑さんの主な作品には、いつもこうした民間の土俗的信仰とお坊さんが出てきましたが、この小説にはお坊さんは登場しませんね。

坊さんというのはとっても便利なんです。今回の話で言えば、気功の気の話があり、フラクタル構造の話があり、輪廻があり、拝み屋がありますね。坊さんを一人出しておけば、それを全部語っても不思議はない。いろんな世界にまたがる存在で、しかもお金のことを語ってもセックスをしてもおかしくない(笑)。でも今回は一人の人間の目線からはこれしか見えないというのが一つの主張になっていまして、一つの視点からしか見えない人と、また別の視点からしか見えない人とが重なっていくわけですから、坊さんはまず(笑)。

見えないから知ろうとする、とも言えますね。幸司は自殺した姉の気持ちがわからないから、整体の師匠について修行している。身体に触れることで人の気持ちが伝わってくる糸口があるのではないかと模索しているように読めます。

心の器は身体です。だから身体のほうからアプローチしたいというのは禅も一緒なんです。坊さんがいないんで、整体師にいろいろ言ってもらったところもあります。実はもっと言いたいことがあったんですが、これは著者の考え方で整体師の考えとしては不自然だと編集者に言われて、カットしました(笑)。坊さんというのは基本的に一つの宗派に属していますが、私には一つの宗派の考え方で何かをアピールする気持ちはまったくないんです。だから坊さんを登場させなかった。世の中に時空を超えた普遍的な何ものかを求める考え方はいろいろあって、その中のどれかに収斂していくべきだという考え方は、私にはないんです。

私が玄侑さんの小説に興味を持つのは、その宗教的寛容性ですね。この小説も仏教者の立場だけにとらわれないで、やはり民間も土俗的信仰をも包み込んで、仏教的な考え方をそこに溶かし込んで書かれています。

そうかもしれないですね。仏教的な考え方という点では、「縁起」というのが今回の隠しテーマです。別な言葉で言えば「共時性」ですが、これはユングが初めて使った言葉で、別な時に別な場所で起こることが関連しあうことです。

遠くの存在が見えたり感じられたりする、あるいは心に思っている事象と現実の出来事とが一致する、そういうのが共時性ですよね。

ええ。この小説でも何だかわからないけどこうしてしまった、ということがたくさんあります。例えば幸司は首筋に熱っぽいものを感じ、その後で理屈では言えないけれど倉田に会いに行ってしまう。江島は蝶を見て、理屈では説明できないけれどそこに飛鳥を感じてしまう。江島と倉田が出会って何で殴り合うようになるのか、理屈では何も説明されないわけですが、ロジカルじゃない力に押されてやってしまう。そういうことが私たちの現実にはよくあると思うんです。でもそういう力が入り込む余地はないという前提で暮らしている。共時性の出来事は日々起こっているんですが、それに身を任せるということができない。とくに若い時には自分の立てた目標に向かって邁進していくから、世界が関連しあって自分に押し寄せてくるものを無視しつづけて生きていくことになる。だから辛い。そうでなくて共時性に任せる生き方が「リーラ」なんです。

弥生は、人生ってきっともっと楽しいはずなんだと言いますね。これはやっぱり玄侑さんが若い人たちに説きたい法話、というと小説家には失礼かもしれませんけれど(笑)、そういう響きもこの小説にはあるように私は感じました。

坊さんの現場には自殺する方もいるし、あるいは小説を書く坊さんということで、子どもが自殺したと訪ねて来られる親御さんもいらっしゃる。そういう人たちは何故わが子が死んだのか、みんな何らかの自責の念をもって過ごしているんですね。この小説で言えば、母親は何故あんなひどいことを娘に言ってしまったのだろうということがありますが、江島という存在がなければまた違ったでしょうし、江島がいたら必ず自殺したかというと、そうも言えない。父親は父親で、あの時せっかく娘が訪ねてきたのに何もしてやれなかったという思いを抱えている。つまり一つのことで自殺が起こるんじゃない。いろいろなことが積み重なって、やはり螺旋のようにある人間を取り囲んでいくという構造が、自殺そのものにもあるんじゃないか。小説が法話に聞こえてはちょっとまずいですが(笑)、現実に自分の身近な人を亡くされた方とか、いま自殺しようかと悩んでいる方に読んでもらいたい。そんな気持ちが私にあるから、そう読めるんじゃないでしょうか。

ところで、玄侑さんのお寺がある福島県三春は桜の名所ですね。玄侑さんの小説には桜がしばしば出てきます。ここでも各人各様に桜を眺めますね。

満開の時に飛鳥が逝く、桜には死を誘う雰囲気を感じます。ここでは散った桜の花びらで三匹いた金魚が二匹しか見えなかったということもあります。

あそこは説明がほしいですね。桜と金魚から幸司は島へ行く決意を固め、弥生も仕事を辞めて同行するというのはどういうことなのでしょうか。

要するにロジカルな動機ではないっていうことですね。金魚が何を意味していたかをロジカルに説明することは難しいですが、もし三匹見えていたならば行かなかったんだろうっていう感じ、その感じはわかってほしいという以外にないんです。あえて理屈をつけるとするなら、幸司にはあの時、金魚が自分と弥生に見えたんだと思うんです。弥生とは電車の中で向きあって知り合ったという妙な出会いをしたけれど、あそこで幸司は、こいつと生きていくかという気持ちになった、将来的なこととかは何も言っていないですけれど。弥生もあの時、会社を急に辞めて島へ行くことに宿命的なものを感じる。結婚するとか自殺するとか、それはロジカルに決まることじゃないでしょう。自分はこういう人生を生きたい、そのためにはこういう伴侶が必要だからとどこかへ探しに行って見つけた、なんていう人はいないと思うんです。気がついたら横にいる。仏教的に言うと「ご縁」としか言いようがないんです。ご縁に身を任せることが「リーラ」です。「神の庭」というのはこの小説に出てくるスペイン語の歌ですが、スペイン語ですから意味はわからない。でも何となく伝わってくるものがある。それが大事なわけですね。確かに金と桜じゃわからないと思います。多くの読者が納得するためには説明が必要かもしれない。合理的な理由も書いておいて、金魚もあった、桜もあったとすれば理解しやすいと思うんです。でも金魚と桜しか書かないことで、私たちを動かしているのは論理ばかじゃりではないということを強調したかった。言葉を使っておきながらこんなことを言うのは申し訳ないですが、言葉とか論理から解放される時間が人間にはとても大切ではないかと思うんです。「リーラ」というのは言葉の届かない世界です。

幸司と弥生が島へ行って霊能者に落とした魂を拾ってもらい、死んだ姉を成仏させてもらって東京へ帰ってみると、母親と父親と倉田のそれぞれから幸司の携帯電話にメッセージが来ていて、飛鳥の自殺をストンと受け入れたことがわかる。そして散った桜の木に新緑が芽生える頃、みんなが再生することになりますね。ただ、僕がわからなかったのは、江島です。彼はなぜ救われるのでしょう。

確かに読者がそういう気持ちになるだろうとは予想しています。

そういう目で読み直すと、江島は無言電話をかけ、無言の飛鳥に慈悲を感じるなどとも書いてあるし、懺悔もしますね。でも小説は幸司で始まって幸司で終わるとばかり思っていました。ところが江島で終わる。なんとも納得しにくい。飛鳥の慈悲というようなことは、僕にはわからないです。

そういうふうに思われるのは、まっとうな読まれ方だと思います。人間的な目で見れば、江島は許されるべきではない。私も許したいとは思っていませんでした。しかしこの小説が目指しているのは神の目です。江島は神様の前で懺悔する権利もないのか。むろん世間はあいつを許さないでしょう。でもこの話は世間を超越したところから書かれている。その立場から見ると、江島もやり直せるんです。世間は許さないけれど、仏様は別です。その乖離(かいり)をあそこで感じてもらっていい。倉田にボコボコに殴られて、私もあれでいいと思っていたんです。でも途中から神様が出てきた。何で江島が救われるのか、そこを考えてもらいたいですね。本当のことを言いますと、当初はあの部分はなかったんです。ところがこれで終わってはいけないという、それはもう理屈ではなかった。五人が次々に安らぎえお得て、彼だけ放り出しておくわけにはいかない。著者は放り出してもいいかと思っていたんですけど、神がお許しにならなかったということなんです。

2004/10/01 トーハン掲載

タグ: リーラ 神の庭の遊戯