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Message■人間は縁起という相互連関の中に生きている ロジカルにはとらえきれない

不思議図書館 著者からのメッセージ

 無言電話をかけるストーカー。その電話を切らずに聞く飛鳥。電話のバックにはスペイン語の歌が流れる。飛鳥は、その「神の庭」というCDを探し出して聞くようになる。
「ストーカーを信じようとしていますよね。いつか変わってくれるのではないかと。無言電話に付き合うというのが、狙われやすいところでもあるし、今の世の中を生きにくい部分でもあるでしょうね」
 玄侑宗久さんの最新作『リーラ』は、この世を去った飛鳥をとりまく6人の語りで織りなされていく。
 飛鳥から相談を受けた男友達は、彼女とストーカーとの関係に嫉妬(しっと)を感じる。
「特別な関係であるという思い込みはストーカー独特のものだが、飛鳥にもその思いがあるかもしれないと、男友達は感じていますよね。ストーカーに『慈悲』を思わせてしまう受容力が彼女にあることは確かです」

まともだから生きにくい 変な子の自殺は書きたくなかった

 ストーカーは、飛鳥が通うコンピューター学校の講師だった。学校を辞めた彼女は実家に帰り、母親と小さな衝突を繰り返しながら、アロマテラピーやコーヒー浣腸(かんちょう)の生活をした後、首を吊ってしまう。
「飛鳥は、勉強も運動もできて、人間に対する興味もまっとうに持っていた。まともだから生きにくいという閉塞感(へいそくかん)がありますね。変な子が自殺したとは書きたくなかった」
 3年後の命日の前日、母親や弟は、飛鳥の気配を感じる。飛鳥は、自分の前世は13世紀の北イタリアの修道女だったと信じ、人生の目的は魂を清めることだと語っていた。飛鳥が子供の頃に離婚し、今は富士山麓(さんろく)で暮らす父親も、自殺の直前に訪ねてきた飛鳥を思い出す。飛鳥とかかわりのあった人々が偶然にも同じ日に彼女の気配を感じていた。恋人未満だった男友達も、ストーカーだった男も・・・。
 医者と作家を兼ねる例は多い。「人の生き死に」にかかわる仕事が、人間を見る眼を養うのだろう。しかし、出家する作家はいても、現職の僧侶が小説を書く例はほとんど無かった。玄侑宗久さんが3年前に芥川賞を受賞したとき、ようやく文壇の欠落部分が満たされた。爾来、人の生死を、ときに死後にまで及んで書き続けてきた。
 本書では、玄侑作品には珍しく、お坊さんが登場しない。代わりに弟の師匠である整体師が登場し、氣は情報であり、輪廻(りんね)で伝わるのは氣であり、光は成仏した氣だと語る。こんなことを語らせてしまっていいのだろうか。
「仏教という枠の中では書けないのですから、それはしようがないんです(笑)。仏教は、原始仏教の時代から変化して、どんどん魂の問題を避けてきている。インド仏教は輪廻を前提にしているが、中国では先祖の中に動物がいるということは絶対に困るわけで、輪廻は切り捨てられた。輪廻を無視した仏教が日本に渡ってくるが、日本には常世(とこよ)信仰があって、人が死ねば、山の彼方や海の彼方で祖霊神となり、神となった命が人間となって戻ってくる。仏教が入る前からそういう輪廻観があったところに仏教が入ってきた。特に仏教で語る必要はないのです」
 飛鳥の魂が救われていないと感じた弟は、恋人と一緒に彼女の故郷の沖縄に霊能者を訪ねる。霊能者は、飛鳥がまぶい(生魂)を落としており、そのまぶいを海から呼び戻し、成仏させなければならない言う。
「沖縄の儀式の場面は、取材してきたから妙な迫力が出てしまった」

今回のテーマは日常に戻ることがどうしても必要だった

 玄侑さんの小説は、非日常的な場面の盛り上がりで終ることが多い。「飛鳥の魂も戻され、霊も成仏したらしい、そこで終るのが玄侑宗久ではないかと思う人がいるかもしれないが、今回のテーマは日常に戻ることがどうしても必要だった。あの場面がインパクトを持ちすぎるのは本意ではないんです」
 その日常を締めくくるのは、ストーカーの江島となった。
「江島をどう読むかが、この小説の踏み絵になっていますね。江島は誰の中にも眠っている。精神的に変わっている一部の人を隔離するという考え方があるが、われわれは縁に応じてどんな様子にもなる。仏教はそう考えています。最後に江島に行ったのは、私に、はからずも起こったリーラ的現象なのです。でも、それが起こらなければ『リーラ』は完成しなかった」
「リーラ」とは、宇宙がなぜ出来たのかを説明するヨーガの言葉。「気晴らし、遊戯」と訳される。この世界は「神の遊戯」で出来た・・・。
 親しい人に自殺されると、自責の念から原因探しをすることが多い。
「なぜ死んだのかをが合理的に突き詰めても救われるわけではない。人間は、縁起という相互連関の中に生きているからロジカルにはとらえきれない。ロジックは因果律だから縦の流れだが、お釈迦様の説いた縁起は、因果律と共時性(偶然の一致)を、縦糸と横糸のように両方含んでいる。『リーラ』はロジカルな説明をあえて省いているところがあるから、何となくわかってもらわないと困る小説なのです」

2004/10/18 Yomiuri Weekly掲載

タグ: リーラ 神の庭の遊戯