昨年度、日本では三万四千人の人が自殺したという。だが、身近な人の死に直面したとき、人はなかなかそれを克服できない。「残された人は、死の原因を特定しようとしますがなかなかうまくいきません。なぜなら論理的になぜ死んだのかわかるような理由では人は死なないからです。この世のすべての出来事が、原因があって結果があるという因果律に支配されているわけではない。例えば、学校で先生に叱られて家に帰ったら、たまたま夫婦喧嘩していて、そのとばっちりで酷いことを言われた。いたたまれなくなって自分の部屋へ行ったら、窓から子供が苛めにあっているところを見てしまった。さらにテレビをつけたら、人が殺される場面を映していたとしましょう。その子が翌日自殺したとすると、先生や親達はそれぞれ自分が原因だと考えるでしょう。しかし彼らは、自分が関わった以外のことは知らないわけです。ですからその子がなぜ死んだのかは、最終的には理解できません。人は無関係に思える出来事の偶然と見える重なりによって動かされています。自殺も、いろいろなことの繋がり、ユングの言葉でいうところの共時性に導かれて、そこに踏み込んでいくのだと思います」
玄侑宗久さんの新作は、両親、弟とその恋人、男友達にストーカーという残された六人の人達によって語られる、二十三歳で自殺した女性・飛鳥をめぐる物語である。自殺から三年、六人は共に彼女の微かな気配を感じ取る。それぞれが自責の念を持ちつつ、しかしそれだけでは死因として十分ではないと思っていた。「自殺した本人の気持ちをわかったように書くことは出来ません。ドーナツ状に彼女を取り巻く人々の視点によって中心の空洞を書くしかないと最初に思いました。それが書き進めていくうちに、螺旋階段を登っていくように全体を俯瞰できる神の視点に近づいていけた。読者も、一人の人間としては持ちえない視点を体験することになるわけです」
著者である玄侑さんにとっても、神の視点に近づいたとき、劇的な変化があった。最初は書くつもりはなかったストーカーであった江島の「救い」が浮かんできたという。
「私自身が神の目に照らされて、当初の思惑を越えたところに物語が進んでいきました。もちろん世間的には江島が許されるわけではありません。しかし彼は心から懺悔したことによって変わった。私は、頭のなかの構成材料、それは彼の歴史でもあるわけですが、そのものは変わらなくとも、立ち方や在り方が変わって心がまったく変わるということがあると思っています。そういう意味で『リーラ』という見方をしたとき、この世界の見え方が大きく変わるわけです」
物語の結末近くで、飛鳥の弟・幸司の恋人である弥生はこのように説明する。「ヨーガではね、この宇宙がどうしてできたかってきかれたら『リーラ』って答えるの。神様のリーラ。気晴らしとか楽しみとか、たいていは『遊戯』って訳されるんだけど……私たちが生きてるのもリーラ。死ぬのもリーラ……」
この世界は論理だけでは割り切れないものを多分に含んでいる。その論理からはみ出た部分とどうつきあうか。その答えが「リーラ」に身を任せることだという。「『リーラ』にはサンスクリット語で『波』という意味もあるのですが、もっと波に身を任せるような生き方をしたらどうかと思います。目標に向かって脇目をふらず邁進していくような目的論や因果律に縛られていることが現代人の病なのではないでしょうか。私達の生活は、もっと偶然に支配されているわけです。偶然の出来事や偶然の出会い、それは共時的連鎖と言い換えることができますし、縁起ということもできますが、そうしたものにもっと目をむけるべきだと思います」
しかし、流れに身を任せることはなかなか難しい。人は誰しも自分の人生を支配したいと思う。それは根源的な欲求でもある。「もちろん『リーラ』なだけじゃ困るんです(笑)。目的論を信じて努力することも絶対に必要です。ただ『リーラ』を意識していれば、いままで目に入ってこなかったものも見えるようになる。これは輻輳的というかお互いに補完しあうものなのでしょう。『リーラ』を見逃さないように精進努力する(笑)」
実際、江島にしても、恋人未満友達以上というような微妙な立場にいた倉田にしても、自分のなかに潜んでいた論理を越えた部分に気付いたことによって吹っ切れたように見える。そして結局、飛鳥の自殺の原因ははっきりしないまま、六人の登場人物達は謎を抱えつつ、それぞれ飛鳥の自殺を受け入れるのであるが、そこにもロジカルな説明はない。「この小説を読みはじめたときは、読者も自殺の原因探しをしていると思います。しかし私は、読者にこの小説を体験して欲しいと願っています。人の世がいかに縁起によってネットワークされているかという構造を感じて欲しいですね」 最近次々に新書や対談集を執筆されている玄侑さんだが、このテーマは小説でしか書けなかったという。
「かねがね小説に対する評論で、『ここにこの人物が登場する必然性がわからない』というような言われ方をすることに違和感がありました。『いや、すいません。偶然なんです』って言いたかったんです。現実には『なんでこの人がここに現れたのだろう』というような偶然がいくらでもあるわけです。それが小説では伏線を引いて物事を必然の流れとして描くというのが主流になっている。でも現実をしっかり描こうと思ったら、偶然を書かなければ話しにならないじゃないかという考えがありました。この作品ではそれを書くことが出来たと思います」
僧侶として、また作家として、玄侑さんに相談にのってもらいたいと、自責の念に苦しむ多くの人が訪れる。「この物語を読んでもらえれば、なんとなく気持ちが安らげるのではないかと思います」
2004/11/01 文學界掲載