「医師が薬師如来ならば、医療現場では阿弥陀如来の存在も必要」――デビュー作以来、末期患者の苦悩を小説の題材に取り上げてきた禅僧の芥川賞作家、玄侑宗久氏は語る。作家としての冷徹な視点の一方で仏教の知恵を説く、現代人の指南役でもある同氏に聞いた。
病の体験、個別性を尊重してほしい
「日本古来の死生観が、西洋医学の合理主義の中でかき消されている」と、開口一番に憂える。
「薬師(くすし)としての医師が病を敵として戦うのは、現代医療の中では致し方のないこと。けれども戦うばかりでは、死に直面した人に心の安らぎは与えられない。看護師やケースワーカーなどの医療スタッフは医師とは別の世界観を持って、すべてを包み込む阿弥陀如来のような役割を期待したいのです」
がん患者の死を描いた作品『アミターバ――無量光明』では、心やすらかな死の在り方を提示、このほどCD化を諒解した。一人でも多くの末期患者や家族に知ってほしいとの思いからだ。
「病の体験は各人各様。医療現場では、その個別性を尊重してほしい」
禅はあるがままの自己を肯定
20年来続く坐禅会を月1回、開いている。上は80歳代から10代の若者まで、老若男女が集う。「以前よりも悩みを抱えた人が多いようだ」と顔を曇らせる。坐禅のメリットとは――「そのメリットがないところでしょう」と問答。
「坐禅は主に言語脳を休ませることで、メリットを求める思考を離れる時間。人は日常に不足を感じ、普通の発想ではそれを外のもので補おうとするが、実は自分の内側にあるという発見をする。指導者が何かを与えるのではなく、自分で見つけて帰っていく。潮干狩りで各自獲った貝を持ち帰るようなものです。
禅では、いわゆる「理屈」や「価値判断」を最大の妄想ととらえる。ゆえに坐禅・瞑想は、何かのために、などと理屈づけをする脳の働きを排除する行だ。人は本来のゆらぎ続ける自己をそのまま肯定し、日常生活で乱れた心の「平常心」を取り戻していく。
「お陰さまで生きている」子どもたちに伝えてほしい
先ごろ、解剖学の養老孟司氏と対談した。最先端の脳科学と禅に共通項が多いことに驚いたとか。
「養老先生は意識が世界を作って都市化するが、そうではなくて、自然に戻らなければいけないと。その自然というのは体だとおっしゃるわけですが、そこに坐禅・瞑想が関係してくる。意識というのはある意味で固定化した情報で、自然は常に流動して止まないが、これは仏教でいう『色』と『空』に通じるわけです。熱の入った話になり、ハードな運動をした気分になりましたが(笑)、おもしろく興味深い対談でした。
坐禅、仏像鑑賞、お遍路など、体験的仏教が静かなブームを呼んでいる。この現象は年齢を問わず、若い世代も例外ではない。
「今の子どもたちは学校教育で保護され、一方では自立を求められるという、全く相反する価値観を押しつけられ、とまどっている状態。自分のことを自分でしながらも、お陰様で生きているという認識を、教育の場でも伝える努力が必要ではないでしょうか」
2005/01/01 教育医事新聞掲載