相手や状況は自分の思い通りにはなりません。そうわかっていても自分の考えを優先させてしまいがちです。そうした苦の種を自らつくらないための心のあり方とは――。
楽な心は、楽な体にある
「楽な心」は「楽な体」にあります。
体が凝っていて歪んでいるのに、心は楽ということはありえません。
まず、楽な体になることが大切です。
楽な体であるには、工夫が必要です。
その工夫とは、「体のどこに意識をおくか」ということです。
人間の体は、全体のおよそ三分の二が水分だといわれます。
それは、ビニール袋の中に水がたっぷりと入っているような状態です。
水が入った巨大な袋を運ぼうとして、頭の部分を持ったら、バランスが悪くてとてもたいへんです。楽に運ぼうとするなら、水袋の中心部分を持たねばなりません。
私たちは、絶え間なく思考が動き回っています。いつも何か考えながら行動しています。それは、いわば水袋の頭の部分を持って運んでいるような状態なのです。それは、楽な体ではありません。
楽な体であるためには、流動体としての体の中心点に意識を持つようにするのです。
その中心点が「丹田」といわれるところです。
よく「臍下丹田」といわれるように、だいたい臍下三寸(一寸は約三センチ)の周辺にあります。個人差はありますが、だいたいその辺りに意識をおくのです。もっと言えば、その中心の一点に意識をおく。いつでも、臍下のその一点に意識をおくことによって楽な体になります。そして、楽な体は、楽な心になるわけです。
この世界は、無限の関係性の中で、うねるように変化している
私たちの思考は、「因果律」に支配されています。
結果には原因があるのだから、原因を変えれば結果は変わる。「こうなりたければ、こうしよう。こうなりたくなければ、こうしないでおこう」という考えです。
これは、ものごとをコントロールしようとしているわけです。
このコントロールしようとするありようが、苦を生んでいるのです。苦しみから逃れるために、原因探しに躍起になることによって、かえって苦が深まるということがあるのです。
原因というものは無数にあって、どれかに特定できるわけがありません。この世界は無数の縁のからまりによってできているからです。無数の関係性の中で、うねるように変化しているからです。
私たちは、ありのままに世界をみることはできません。自分が探し求めているものだけを、見たり聞いたりしているのです。
一つひとつの出来事それ自体には、本来、意味はない。いいも悪いもないのです。
晴れであっても雨であっても、そのこと自体には意味はありません。
いいとか悪いという意味づけをするのは、自分自身なのです。
一つの出来事に対して、「嫌だなあ」と思った瞬間から、感覚器官がその方向に動きます。すると嫌なことが重なるようになります。嫌なことの起きた原因を探そうとすると、嫌なものをさらに呼び込んでいきます。
逆に、「これはいいことだ」と思うと、いいことの原因を探しだす。すると、いいことが重なっていくということがあります。
自分自身の思い込みによって、世界が変わっていくわけです。
たとえばガンになったとします。
そのこと自体、本来、いいとか悪いという意味はないのです。
けれども、私たちは「最悪のことになった……」と思うでしょう。
するとそう思い込むことによって、さらに最悪なことを探しだす。
それが苦しみを作っていくのです。
物事は、それ自体、いいも悪いもない。風邪をひいた、それ自体に意味はないのです。
何事もそう思えると、悪いことが連鎖的に起こるのは防げます。
苦しみというものは、外から来るものではありません。苦しみをつくっているのは、自分自身です。
何が起きても、それ自体、いいも悪いもない。一つひとつの出来事に対して、いい悪いという判断をやめる――それが楽な心をつくるのです。
胡蝶になって、胡蝶の志で楽しんでいる。それが楽な心
『荘子』に「胡蝶の夢」という話があります。
荘周が、あるとき夢をみます。
夢の中で胡蝶になって、ひらひらと心ゆくまで空に遊んでいます。
目が覚めてみると、荘周はわからなくなります。
はて、夢の中でこのおれが、胡蝶となっていたのだろうか。
それとも、胡蝶が夢で今のこのおれとなっているのだろうか。
――というものです。その中に、
「栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり 自ら喩しんで志に適う」
ということばがあります。
胡蝶になって、胡蝶の志で楽しむことです。
楽な心とは、そのときそのときの志を楽しんでいるのです。そして、志はその時々でコロコロ変わっていいのです。一貫してなくてもいいのです。
私は、取材を受けているときには、取材を受けている志でいます。
ついさきほどまでは、庭のサルスベリの枝を切っていましたが、枝を切るときは、切るときの志です。午前中は、法事をしていましたが、そのときは法事をしているときの志です。原稿を書いているときには、原稿を書いているときの志になります。
一貫性とか連続性にとらわれないことです。
やっていることが違えば、別の人間になっていいのです。別の生きものになってもいい。胡蝶になったとしたら、胡蝶の志で楽しむ。泳いでいるときには、魚の志で楽しむということです。
大切なのは、「今」という足場にしっかりと立つことです。
お茶を飲むときには、お茶を飲むことに徹する。歩くときには歩くことに徹するのです。
「もしも~したら」とか、「いざという時」に備えるのではありません。
将来訪れるかもしれない「いざという時」も、その時点では「今」なのです。
「今」に最大限没入して、楽しみ尽くす。
それが「遊戯三昧」です。
2005/01/20 DANA掲載