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特集 「困った」に光を見る

困ったことで自分が変化する。変化できる自分こそが財産

「どうしたらよいのか」と思い悩めば、気がふさぐばかりです。しかし、「ピンチは絶好のチャンス」と言われます。困った事態を前向きに受け取るための心のあり方とは――。

困ったことはチャンス。一瞬一瞬がクリエイトの場に

 「困った、困った」といっても、それは自分の置かれた立場から見て、困っていることが多い。たいがいは、自分で決めたことで自分の首を絞めている。
 困ったときはその立場をちょっと離れてみればいい。約束を守れなくて困ったとしても、死ぬか生きるかといって悩むようなことじゃない。ちょっと勇気を出して、あと一月待ってもらえますかと言えば、何とかなるんです。
 「困る」とは「思うようにならない」ということ。でも、世の中は思うようにならないのが当り前。思うように人生を生きようとしたら、人生をとても狭いものにしてしまうんです。
 現実は、思うようにならないことにあふれています。思うようにしようと思っていたら、思ってもみないことには目がいかなくなる。だが、思ってもみないことにこそ豊かなものがある。思うようにならないことを拒絶したら、その体験を捨てることになる。それではもったいない。
 「困った」ということは、これまでのやり方や見方では通用しない事態が起こったということ。それはチャンスなんです。それによって、白紙の状態になって自分の智恵に聞くことができるからです。
 すると、一瞬一瞬がクリエイトの場になるんです。普段使わない頭が回転を始めます。そこで過去のやり方や見方に固執すると、クリエイトする機会を捨てることになってしまいます。

思うようにいかないことで揺らぎを楽しむ

 私は、思うようにならないことが起こると、とりあえず「風流だな」と思って受け入れてみるんです。困ることで、こうしようと思っていた志が揺らぎますね。その揺らぎこそ、風流なんです。
 「八風吹不動」(八風吹けども動ぜず)ということばがあります。「八風」とは「利(り)」(利得を得る、意にかなう)「衰(すい)」(損失を被る、意にかなわない)「毀(き)」(陰でそしられる)「誉(よ)」(陰でほめられる)「称(しょう)」(人前でほめられる)「譏(き)」(目の前で悪口を言われる)「苦(く)」(苦しみ)「楽(らく)」(楽しみ)の八つです。
 誉められたりけなされたり、意にかなってもかなわなくても、苦しくても楽しくても、そんなことに動じないんです。でも、まあそこまでいくと、これは人間じゃない。動じないといっても、揺らいでもいいんです。
 揺らぎを楽しめるのが風流です。人生に起こることは、大部分が思うようにいかない。それが当たり前です。思うようにいかないことで揺らぎがある、そこを楽しむ姿勢が風流なんです。
 私はまた、予定を立てるときあまり細かな計画は立てません。「成り行き」を大切にしています。思うようにいかないことが起こったら、予定を変えればいい。計画というのは、そのとき何が起こるかを予定していない。「これでいい」と思った過去の残骸なんです。それはいまのその場の気持ちとは違います。計画という過去の残骸に縛られて、いまの気持ちのほうを切り捨てるのは愚かなことです。
 困るということは、「こうするはずだった、こうじゃないといけない」という思いが、そうでなくなっただけのこと。そのとき立ち止まって、「本当のところどうなのか」「そもそも思っていたことなど、それほどたいそうなものだったのか」と、よく検証してみることです。何より、人生が思い通りでいけたらつまらないし、予期しない現実の方が、はるかにおもしろいんです。そういう気持ちでいれば、必ず対応策は出てくるものです。
 思うようにいかなかったら、それは立ち止まるチャンスです。立ち止まることで、たくさん本を読む時間ももてるし、周囲もじっくり見ることができる。そういう時間はまさに賜りものなんです。「困った、どうしよう」という事態になったら、そこで立ち止まって、いま自分は何を賜ったのかを探すといい。探し当てたら、それはきっと感謝したくなるようなものなんですよ。

何があっても大道を行く。「大丈夫」を心の糧に

 困ったとき、事態を拒絶したら乗り越えられません。拒絶というとかっこよく聞こえますが、逃げているのですから。
 思ってもみないことは、いつだって起こる。それを「嫌だ、困った」と拒絶するのは、自分の歩ける道をどんどん狭めて逃げているわけです。
 困ったことが起きるのは、何度も言いますが自分が変化するチャンスです。困らなければ変化しないのだから、これほど有り難いことはない。また嫌いな人を避けるのは、自分の中にある認めたくない部分を相手に投影しているからです。だから、嫌な人を避けている限りは、自分は変わらない。嫌な人をそのまま受け入れてコミュニケーションができるようになったときに、自分の嫌な部分が受容できるようになって幅が広がるんです。
 お釈迦さまは、「自らを灯明とせよ、法を灯明とせよ。それ以外を灯明としてはいけない。道しるべとしてはいけない」と説かれました。この「自灯明」の「自」とは固定的な自分ではない。変化し続ける自分です。
 変化している自分が素晴らしいんです。修行とは、自分を変えるためのものです。小説は書けば残りますが、修行はあとに何も残りません。残るのは、変化したいまの自分だけ。私は小説を書くことで自分がどう変化したか、そこいちばん大事だと思っているんです。
 自分の志を変えないまま乗り越えようとするのは、無理です。困った事態を乗り越えるためには、志を変えるしかないし、志はどんどんと変わっていいんです。自分が変わるということを喜ばなければいけない。余計なこと、厄介なことをこそ、風流と思って喜ぶべきだろうと思います。
 最後に申し上げたいことは、「大丈夫に生きよ」ということです。『孟子』に、「大丈夫」という言葉があります。「天下を広い住居として、天下の真中に立って、天下の大道を歩む。目指す地位を得られれば、人民とともに道を実現し、目指す地位を得られなければ、自分ひとりで道を実践する。富貴にも迷わされず、貧賤にもくじけず、威武をものともしない。これこそがまことに大丈夫なのである」(『孟子』「滕文公下(とうぶんこうげ)」)
 顔を合わせられない人なんかいないから、天下は広い。その天下の真中に立って、大道を歩む。仲間の賛同が得られなくとも、自分ひとりで道を実践する。お金にも迷わず、貧乏にもくじけない。むろん威されたってものともしないのが、「大丈夫」なんです。「それでも私はやる」、ということでしょう。
 自らの「個としての心地よさ」を大切にして、その道を進む、ということでしょうね。「大丈夫」の心で困った状況を乗り越えてほしいものです。

2005/03/20 DANA掲載

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