中高年に坐禅がブーム

なぜ仏教にひかれるのか?

ここ数年、各地の禅寺でさかんに坐禅会が催され、多くの中高年が参加しています。
また、六十歳を機に仏門に入る「還暦得度」をする人も増えています。
書店には仏教関連の書物が並び、お遍路をしたり熊野古道を訪れたりする人は後を絶ちません。
なぜ今、これほどまでに仏教に注目が集まっているのでしょうか。
そこで、五十歳を過ぎてから仏門に入った人たちを取材しその背景をリポートしました。
また、自身も坐禅会を開いている作家であり僧侶である玄侑宗久さんに坐禅の魅力についてお話をうかがいました。

 うちのお寺の座禅会にも多くの中高年の方が参加して下さいます。人は加齢とともに無数の知識を得、理屈でははかりえない体験をたくさんします。考えてみれば、世の中は「ひょん」なことばかりですし、人生は計画通りにいかないもの。年をとるとその「ひょん」がわかるようになるんですよ。きっと。すると世の中、因果律だけじゃないということを感じるようになるんでしょうね。仏教は原理原則を押し付ける宗教ではありません。すべてを仏様が与えてくれたご縁と考えれば、その「ひょん」が楽しいと感じられるようになる。それはまさに仏教の考え方なんです。

坐禅で勘を呼び戻す

 人間は、ものを考える能力を手に入れた代わりに動物的な勘を失ってしまったんだと思います。子どもは言葉を使って理論的に説明することができない代わりに勘が優れています。犬や猫も「あいつは敵だ、こっちは味方だ」といったことを敏感に察知する能力がある。この勘こそが人間が生きていくうえでもっとも大切な力なのに、言葉や理論でものごとを捉えられるようになると、今度は勘が衰えてしまう。
 坐禅には、本来人間が持っていたこの勘を呼び戻す作用があるのだと思います。坐禅をすることで、頭の中に概念のない状態、つまり何も考えない状態を意図的に作り出します。その状態を作り出すには、何かに集中するのもいいですね。ただし、お菓子を焼くために無心に卵白を泡立てるとか、包丁を研ぐとか、そういった結果を期待するものはだめ。掃除はいいです。この場合、きれいにすることよりからだを動かして集中することが目的ですから。ここを忘れないことです。つまり、途中で止めても問題のないことをするのが大事なんです。落ち葉拾いは途中で止めても困りません。そう考えると逆立ちもいいです。意識を集中させていないと倒れますから。
 実は、意識を集中させるにはからだを動かす方が簡単です。坐禅は敢えて動かずじっと坐り続けなければなりませんから、厳しいのです。そこまで負荷をかければ見えてくるものがあります。そうはいっても、一回や二回で会得するのは到底無理ですから、まずはやってみることです。
 坐禅の流儀はというと、私の属する臨済宗でも、曹洞宗、黄檗宗でも脚の組み方と眼を半眼に保つ点は同じです。眼を閉じると思考が完全に自由になってしまうので、半開きにします。坐り方は、臨済宗と黄檗宗は対面(ほかの人と向き合って坐る)、曹洞宗は面壁(壁に向かって坐る)です。

内部感覚に意識を集中して

 何も考えないというのはけっこう難しい。だから、坐禅では意識的にからだの内部感覚というものを使っていきます、たとえば息を吸って頭から3センチくらい上まで満ちた何かが息を吐きながら全身に広がっていく。こんなふうに頭の中に描いたりして自分のからだを飼い馴らし、その感覚で遊んでみることです。
 坐禅を体験して足が痛いという人がいますが、「痛い」というのは概念です。からだの感覚は「痛い」というひと言で済まされるような大雑把なものではないはずです。「左脚のふくらはぎのこちらが突っ張っているな。反対に、こちらがゆるんでいるな」と細やかに、順番に感じ取っていくのがからだの内部感覚に耳を傾けるということ。これから坐禅をする人は、こんなふうにからだに意識を向けることを知っておくと、坐禅もきついだけには終わらないんじゃないでしょうか。
 「無」にならなければ、ということも考えない方がいい。「無」を意識すること自体、すでに概念にとらわれているということですから。身動きひとつしちゃいけないということでもありません。少しは動いていいんですよ。警策は動いたから振り下ろされるのではなく、眠気を取ってあげたり、励ます、ほぐすなど、いろいろな意味があるんです。大切なのは、微動するにしてもからだのどの部分がどのように動いているかを細かく実感することです。
 坐禅を会得していくまでには、誰でもある程度同じようなこころとからだの変化の道筋を辿ります。その意味では坐禅も経験科学です。そしてからだはこころの噐。「安らぎを感じています」という人の肩がパンパンに凝っているということはあり得ません。からだがほぐれて、初めて安らいだこころが自然に生まれてきます。
 遠い昔にお釈迦様が厳しい修行の末に辿り着いた解脱と真理への道を、凡人の私たちもお釈迦様の背中を見ながら歩んでいこうというのが仏教。それは我が身の中に仏を見出す旅なのです。すでに合掌して佇む仏像は、実は私たちの中にある仏を拝んでくれている。だから私たちも仏像に向かって拝み返すんです。坐禅で頭から概念を取り払うことによって、段々と自分の中の仏様に出会っていけるはずです。

坐禅の仕方

  1. 眼は半眼で。自分の2m先ぐらいに目線を向け、同時に視野全体の輪郭も意識する。
  2. 臍下丹田に意識を集中し、それ以外は脱力する。手は左手の上に右手をのせて、軽く親指を合わせる。
  3. 両膝が床につくように、お尻に当てる座布団の高さを調節する。本来は両脚を組むが、無理なら片脚だけを一方の腿の上にのせる。その際、下の脚はできるだけ奥まで入れること。
  4. 腰骨の下から3つに意識を集中し、尾てい骨から上に起こすようにする。この3つの骨が起きてくるまでにはしばらくかかる。

逆立ち


逆立ちも自分のからだの中の感覚を呼び戻すのに役立つ。最初は壁などの支えを使って、徐々に支えを外すように。(写真)

2005/03/28 毎日が発見掲載

タグ:

トップへ戻ります