僧侶であり、芥川賞受賞作家としても活躍中の玄侑宗久さん。「生と死」「精神世界」といった深遠なテーマを、禅僧としての視点からだけではなく、脳科学や物理化学までを駆使して、さまざまに展開しています。
宗教を新たな面からも見つめている玄侑さんに、私たちが「悩む」ということはどういうことなのかをお話いただきました。
「自分」は「自然の分身」
ここ数年、僧侶としてだけでなく、作家としても名前が知られるようになったせいか、さまざまな人から悩みを相談されることが少なくありません。そして、多くの悩み事を見聞きしているうちに、何やら共通の問題点があるような気がしてきました。
では、悩みの原因はどんなところにあるのでしょうか。まず、人間そのものがどういう生き物かということから考えてみます。これについては、先日、養老孟司(ようろうたけし)先生と対談をしたときに、印象に残っている話があります。あるとき先生が、職業安定所の垂れ幕に「あなたに合った仕事が見つかるかもしれない」と書いてあるのを見て、「ふざけるんじゃない。仕事はおまえのためにあるのではない。世の中がうまく動いていくためにあるんだから、おまえが仕事に合わせろ」と怒ったと言うのです。私もそう思います。「それでは仕事に私の個性が活かされない」と反論されてしまいそうですが、そもそも個性とは何でしょう。
この個性という考え方は西洋から入ってきたものです。キリスト教では人間を「神に似せてつくられたもの」としていて、神学ではそれを「ペルソナ」と呼んでいます。それがパーソナリティ(個性)の語源です。つまり西洋では、人間はしっかりとした個性をもっているものと認識されているんです。
でも、東洋では「自分」という言葉に象徴されるように、人間を「自然の分身」ととらえています。この自然というのは、コントロール不能なものです。ですからその自然の一部ということは、私たちは確固とした存在ではなく、揺れている存在だということです。揺れるとは、変化することですね。
この「人は変わる」という考え方があるからこそ、教育や修行をする意味があるんだと思います。もっと言うならば、たとえ悪いことをしてしまったとしても、更生することができるということです。
過去の自分に縛られない
ところが実際の生活では、個性を大事にしすぎているから、世の中が苦しくなっているのではないでしょうか。「人間は確固として個性をもっていて、変わらないものだ」という前提で考えるなら、変化することが悪いことのように思えてしまう。そんな社会はつらいですね。人間はよくも悪くも変わり続けるというほうが自然で健康的です。
また、「志(こころざし)」が強すぎるのも自分を苦しめることになります。たとえば「俺は絶対に遅刻をしない」という志を立てて、それに縛られてしまうと、猛スピードを出してでも遅刻しないほうを選ぶことになる。それは危ないことですよ。だから志を少し小さくして、「私はたまにしか遅刻をしない」くらいにする。いわば「寸志」に表現を変えるくらいがいいのだと思います。少年は大志を抱きますが、中年は寸志くらいにしておくんです(笑)。
あるいは、状況が変われば別の志になってもいいわけです。変わり続けるわが身、わが心ですから、それに合った志がそのときその場で求められていく。つまり、あまり過去にとらわれすぎないほうがいいということです。志を立てた自分は、過去の自分。人間は変わるものなのですから、「あのころから私は変わりました」と考えてもいいんです。
見たいものしか見えない私
しかし、そうは言っても、過去の自分の言葉に従うところがまったくないと、その人は社会的信用を失ってしまいますね。やはり、私たちは社会的な生き物ですから、自分にも他人にも一貫性を求めています。たとえば、昨日けんかした相手が今日ニコニコしているのでは、「何があったのだろう」と疑問を感じてしまいます。それは人間の脳が一貫性を求めているからです。
脳には過去の記憶が蓄積されていて、それがその人の判断の基準になります。ですから、人間は変わるものなのに、脳は記憶に頼って物事は判断している。そのため、私たちは気づかないうちに脳の働きに惑わされていることがあります。たとえば、「去年、あの人があんなことをしたから、私はあの人に親切にはできないわ」などと思うでしょう。その人は今は変わっているかもしれないのにそうは考えない。つまり、蓄積された過去のいやな記憶に、自分が振り回されているということです。嫁姑でたとえると、もっとわかりやすいかもしれませんね。奥さんがイライラしているから「今朝、何かあったのか」と聞くと「いいえ、今朝は何もないけど、三日前に」なんて答えが返ってくることがあります。
私たちはそうやって、出来事を蓄積して、自分で勝手に作った「物語」を人に被せてしまいます。つまり、私たちが見聞きしていることは、私たちの脳が作り上げている物語なんだということですね。それはやむを得ないことですが、それが物語だとわかっていないと怖いですね。そして、どうせ物語にしてしまうなら、精緻(せいち)に作り上げないと、とんでもない誤解をすることになってしまいます。
物理学者のデヴィッド・ボームは次のように述べています。「現実とは、われわれが真実とみなしているものである。われわれが真実とみなしているものは、われわれが信じているものである。われわれが信じているものは、われわれの知覚に支えられている。われわれが知覚するものは、われわれが探しているものである。われわれが探すものは、われわれが考えるものに依存している」。
つまり、私たちは頭の中で想定されていることしか見えないということです。
極端なことを言うと、アメリカ人には河童(かっぱ)を見ることができないんです。夕方、不安な気持ちで川辺にたたずんでいるときに、川の中に足が滑り、さらに足が何かに引かれるような気がして、ハッと振り向くと河童が見えた、というのは日本人。それは、日本人の中に長年蓄積されてきた意識の傾向があって、それが河童を見せるんです。それが蓄積されていない人には河童は絶対に見えません。
見ている世界はみんな違う
さて、もう少し、脳のあり方について考えてみましょう。私たちは何でもありのままに見ていると思いがちですが、本当にそうなのでしょうか。
私たちの目の中にある網膜(もうまく)には、約五百万の円錐(えんすい)細胞と約一億の桿状体(かんじょうたい)細胞があるそうです。この細胞が光を感じると、それが脳に伝わり、その光を脳が画像としてとらえることでものを見ることができます。しかも、右目と左目が見ているものは幾分違うもので、それをピタッと重ねるのも脳の働きです。つまり、網膜の細胞が感知できたものだけを脳が再構成しているということです。
たとえば、人はカラーでものを見ていますが、犬は白黒にしか見えていないそうです。でも犬は赤外線を感じられるようだから、熱がわかります。そうすると、私たちとはまるで違う感覚で世界を見ていることになりますね。
このように、私たちが見ているのは世界のほんの一面でしかありません。ですから自分の見ていることがすべてで、それが正しいと思い込むのは怖いことです。
人生も同じです。世の中は「私は正しい、あなたは間違っている」という単純な物語ではくくりきれません。脳はいろいろな判断をしますが、それだけが正しいのではないということですね。
話が少し飛ぶように思われるかもしれませんが、「七福神」を考えてみてください。七福神は福の象徴としてとらえられていますが、考えてみると、これほど不揃いなメンバーはいないのではないでしょうか。出身地だって、大黒(だいこく)天と毘沙門(びしゃもん)天と弁財天はインドで、恵比須(えびす)さまは日本、そのほかは中国です。女性もいれば、福耳(ふくみみ)もいるし、全員に共通する点は見当たりません。ですから、七福全員の意見が一致することはないと思うんですが、その七神が集まって、楽しげにしていることを「福」と呼び、それを理想郷ととらえているんです。
そう考えると、今、自分が悩んでいるのは、たった一つの方向からしか物事を見ていないからだと思えてきませんか。私たちは、自分で無意識に作り出した物語に自分が苦しめられているだけなのかもしれません。
この世界にはいろいろな考え方があり、さまざまな人生観があるのだと認識しておく。すると世の中の景色がパノラマのように広がって、わかりやすくなる場合が多いのではないかと思います。
2005/04/01 ユーキャン やすらぎ通信掲載