特集 おおらかになる!

明日のことを心配しない。「その日暮らし」の生き方

「どうすればよいのか」と考えても答は見つからず、苦悩は深まるばかり。
そんな孤独の世界から抜け出すあり方とは――。

雨の日は雨の日なりに、その日なりに暮らす

 「おおらか」というのは、「その日暮らし」が基本だと思うんです。明日のことを心配しない。明日のことは明日になってから心配するという生き方でしょう。
 これはスリランカの僧侶から聞いた話ですが、青年が二人で魚を一匹売りにきた。「魚一匹売りに来るのに、どうして二人で来たの?」と訊(き)くと、「この魚は二人で獲ったんです。一匹売った分を二人で分ければ、今日は暮らせる。明日の分は、明日また獲ればいい」という。まさに「その日暮らし」のおおらかな生き方なんですね。
 いまの日本人は、魚が獲れるんだったら、獲れるだけ獲ってしまおう。そうしたら、あとはラクできると思うでしょう。ところが、明日になるとまた、十日後の分まで獲ろうとする。明後日になると二十日後の分まで獲ろうとする。もう際限がないんです。その生き方には、おおらかさはありません。
 たくさん獲っておこうというのは「ストック」できるからなんですね。
 ストックというのは、弥生時代に始まりました。農業を始めるようになって、収穫物が一気にとれると倉に入れておくようになる。倉をたくさんもっていることが、豊かさのシンボルになった。倉を作ったとき、その日暮らしというものを捨てたんですね。
「精進」という言葉がありますが、本来は何かが得られるから精進するのではなくて、そのことだけを楽しむのが精進です。ところが、これが経済原理に組み込まれてしまうと、ガンバリズムになってしまって際限がなくなる。
「明日、天気が悪くて魚が獲れないとまずいぞ」と思って、「今日中に二匹獲っておこう」ということになる。「今日すべきことは明日に延ばすな」というのはいいのですが、「今日すべきこと」が十日後の食糧を獲ってくることだったりする。どこまでいっても今日すべきことが終わらない。そういうところに入り込むと、おおらかさはなくなります。
 魚が獲れなかったら、獲れなかったでいいじゃないですか。雨の日は雨の日なりに、晴れの日は晴れの日なりに暮らせばいいんです。
 「晴耕雨読」という言葉がありますが、晴れの日には耕し、雨が降れば読書をする。晴れの日しか働いてないわけです。それで、人生は何とかいくんですよ。ところが、雨の日に備えてがんばって蓄えようとする。
 普通に暮らしていれば大丈夫なはずなのに、先手を打っておこうとする。先手を打っておけば、後でラクができるはずだと思う。ところが、ラクができるはずのときも、また先手を打っている。先手を打つことに一生懸命になって、全然、ラクにならない。私たちは先々のことをやっておけば、余裕ができると思っている。ところができた余裕も、また先へ先へと使うから余裕にならない。
 先のことなど、あまり心配しないほうがいいのです。みんな「いつか大変なことになる」と思い過ぎているんですよ。実際のところ、「いつか」がきても、大したことにはならないんですよ。世の中、そんなに困りませんよ。
 龍という想像上の動物がいます。龍は仏法の守り神ともいわれていますが、その姿はいくつもの動物を合わせてつくられているんです。たとえば、角は鹿の角で、胴体は蛇、目は仏眼というんですが、実際のモデルは牛です。ヒゲは鯉のヒゲ、手は鷲づかみの鷲、耳は蝙蝠(こうもり)の耳、そして頭部は駱駝(らくだ)の頭なんですね。
 なぜ、駱駝かというと、駱駝は砂漠のような過酷な環境のなかでも、のほほんとしているでしょう。そのゆったりとしたありようが大事だと考えているからです。

「これから」ではなく、「いま」というときを楽しむ

 人と人との関係でいちばん素晴らしいのは、人に安らぎを与え、人から安らぎをもらえることだと思うんです。
 ところが、いまの時代、みんなせかせかしています。なぜ、せかせかするのでしょう。それは、外側に何かいいものがあると思って、求めているからでしょう。必要なものは全部、自分の内側にあるという信頼がないんですね。
 老子は、「小国寡民」が理想の状態だと言いました。小さな国、少ない民ですね。「小国寡民、其の食を甘しとし、其の服を美とし、其の居に安んじ、其の俗を楽しましむ」。遠くになんかに出かけてはいけない。国も巨大になってはいけない。「小国寡民」の生き方に幸せがあると老子は言います。
 必要なものは、身の周りにみんなあるはずなんです。必要なものは、全部内側にあるという深い信頼が、おおらかな幸せの境地なんですね。
 せかせかするのは、文明の利器に使われてしまっていることも原因ですね。便利な機械が次々と発明されていきますが、それによってどんどんせわしなくなって、ゆとりにはつながっていかない。
 手紙しかなかった頃は、一週間返事がこなくてもいらいらしなかった。ファックスができると、翌日には返事がこないと落ち着かない。Eメールができるようになれば、二、三時間後には返事がほしい。今日は子どもがわんわん泣いている横で、携帯でメールを打っている母親を見かけました。文明の利器も考えものですね。
 それから、私たちは、約束というものにあまりに振り回されています。約束を守るのは大事なことですが、「そもそもこの約束はなんのためだったのだろう?」という根本を見失って、約束が絶対化されてそれに縛られてしまう。約束したことでも、その日までにできなければ、それはそれで仕方がないんですね。約束を守れなくても、そんなに大したことにはならないんです。
 約束とか予定通りにするために、「忙しい忙しい」とキリキリしている人がいます。キリキリしていたらコミュニケーションはうまくいかないし、物事はちっともはかどらない。何よりも、忙しそうにしているのは、カッコいいことではありませんね。
 また、私たちは、「これから……」というふうに生きているところがあります。
 「今日はがんばって我慢して過ごせば、こからいいことがある」と。お通夜に行くと、「お父さんは働きづめに働いて、やっと退職して、これからラクできると思っていたのに。これから温泉にでも行こうと思っていたのに……」などとよく聞きます。
 でも、「これから」っていうのは、こないんですね。私たちは、いつ死ぬかわからないんです。大切なことは、独立した「いま」というときを楽しむことです。いまやっていることに、没頭することなんです。没頭しているうちに、一つ一つ片付いていくんです、これが、その日暮らしの生き方であり、おおらかな生き方なんですね。

2005/10/20 DANA掲載

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