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初めての経典の読み方

般若心経のこころ

日本人にとって最もポピュラーな経典が般若心経。誰でも一度は聞いたことのあるお経だが、一語一語の語りかける意味は非常に奥深い。作家であり僧侶の玄侑宗久さんが、二六六文字に凝縮されたこころについて解説してくれた。

『般若心経』には『大般若経』の教えが詰まっている

 仏教に興味を持ち始めると、みなさん、『般若心経』から取りかかろうとなさいます。しかし、それは新人が、いきなりチャンピオンに挑むようなものでもあるんですね。
 長さが適当で、しかも流行っているということが、飛びつく原因になっていると思いますが、『般若心経』は決して仏教の「入門編」ではありません。なんと言っても『大般若経』600巻の教えが詰まっているものですし、哲学論文のような要素も入っていれば、構成上の工夫も盛り込まれている、これほど濃密なお経はないんですよ。
 『般若心経』の勉強を始めると「お経って、こんなにむずかしいものなのか」という印象を抱いてしまう人も、実際に多いと思います。美味しそうに見えるからと、初めて食べてみたら、その味に驚いて、逃げ出してしまうようなものですね。
 とはいえ、それほど濃密なお経ですから、きちんと学べば仏教のエッセンスがほぼわかるというのは確かなこと。ですから、上手に食べることができれば、これに勝るごちそうはないと言ってもいいでしょう。

 『般若心経』という呼び方が一般的に定着していますが、正しくは『摩訶般若波羅蜜多心経』であって、本来なら【波羅蜜多】を略してはいけないと私は思っています。
 【般若】というのは「智慧」を表わす名詞で、そこに「到り着くために実践する」という動詞が【波羅蜜多】ということです。これを略すことは、『般若心経』のテーマでもある【空】に反してしまうんです。
 「自然界は常に流動して止まない」というのが【空】の意味です。名詞化することは、流れているものをすくい取って、観念や概念として固定してしまうことですから、その瞬間に【空】ではなく【色】になってしまうんです。
 観念の代表格が言語といえますが、観念を通して人間が認識できるものが【色】なんです。ものごとを言葉に置き換えて、論理的にとらえようとするのは、人間の脳のクセのようなものです。しかし、観念を取り払うことで、ものごとの実相が見えてくるというのが【空】という教えなんですね。
 たとえば、河童という空想上の生き物がいますが、アメリカ人は絶対に河童を見ることはありません。川で足を引っ張られるような経験をしたときに、河童という存在を知らなければ、「河童を見た」という体験も起こりえない。
 人間が持っている観念というのは心の奥底にまで染み込むものです。普段、われわれが見たり聞いたりしている世界は、観念の影響を受けた世界でしかないと言ってもいいほどです。好きな人と会って、話をしているときのことを考えてみてください。私たちは自分が見たいものを見て、自分が聞きたいことを聞いているはずです。だから、本当は目に見えている相手の背景や、本当は聞こえている周囲の雑音は、記憶にとどまらない。
 さらに好きな人がつくった料理を格別美味しいと感じたり、あるいは正反対に、ケンカの後で坊主憎けりゃ袈裟まで憎いといった気持ちになったりもする。
 【色】というのは、現在の自分と、外界とが接することで生じた”ビカミング(Becoming=出来事)”なんです。それは自分の脳がどういう認識を持っているかで、違ってくるんです。
 「ある」と「ない」、「上」と「下」、「表」と「裏」といった概念も、じつは人間の脳がものごとを分析して理解するためにつくり出している概念で、実際は境界線のないグラデーションなんですね。グラデーションを、そのままの状態でとらえるのが【空】であり、”全体性”そのものが【空】でもあるわけです。
 『般若心経』には【不生不滅】とありますが、生まれたり、滅したりするという認識も、観念です。「人が生まれる」ということも、その前には父親の精子と母親の卵子という存在があったわけで、何もないところから人やモノが生まれてくることはありません。
 「宇宙はいつ生まれたのか?」と、弟子に質問されたお釈迦様は、黙って答えようとしなかった。これは有名な釈迦の”十難無記”の1つですが、始まりも終わりもないというのが仏教の考え方です。
 科学の世界では、宇宙の始まりは「ビッグバン」だと言っています。が、科学というのは、全体性から一部を切り取り、始まりと終わりを想定して、その中でモデリングすることによって成立する学問です。始まりがあるという発想は「神が世界をつくられた」というキリスト教の影響で、仏教ではビッグバンで宇宙が始まったという考え方にはなりません。
 ここから始まりだ、ここで終わりだ、ということを考えているのは、結局はわれわれの脳にすぎない。しかし、人間は脳を使って生きていくしかない。だからこそ、観念にとらわれない状態が大切になるわけで、その状態を表しているのが【行深般若波羅蜜多時】(ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー)なんです。
 何かを智慧のある状態で行じて、いわゆる”三味”になっているとき、頭の中は右脳が優位になり、脳波にもリラックス状態を示すα波が表れます。たとえば絵画や音楽を、知識や情報に左右されずに、純粋に味わっている時がそうです。
 【無眼耳鼻舌身意】(むーげんにーぴーぜつしんにー)【無色声香味触法】(むーしきしょうこうみーそくほう)とうのは、目、耳、鼻、舌、触覚、そして心は、固定的な姿を持っているわけではなく、それぞれが感受したことを絶対化して頼ってはならないということです。感覚に身を添わせ、決して言葉に置き換えたりせずに、ものごとを受け取る。それが三昧ということ。三昧の状態で【色】から解き放たれると【罣礙(けいげー)】、つまり「心の引っ掛かり」がなくなり、錯覚や思い込みから遠く離れることができる――というのが、【遠離一切顛倒夢想】(おんりーいっさいてんどうむーそう)という部分なんです。

『般若心経』は智慧を実践することの大切さを教えている

 最初に「入門編ではない」といいましたが、『般若心経』の勉強に、こうしなければならないという決まりはありません。カソリックの人たちは、よく聖書の一節を暗誦したりしますが『般若心経』とも同じようにつきあうことができます。
 禅の世界では”拈提”(ねんてい)といいますが、どこかの一節を取り出して、その言葉について深く突き詰めてみるのもいいかと思います。例えば、【不垢不浄】(ふーくーふーじょう)とありますね。垢つかず、清からず。世の中に、汚いものもきれいなものもないといっているわけです。そんなはずはないと思うかもしれませんが、では、おしっこがなぜ汚いのか? 説明できる人がいるでしょうか。おしっこは、成分を分析すれば、ほとんど無菌なんです。科学的に汚い理由は説明できない。そういうことを考えただけでもわれわれが普段、いかに観念の中でいきているかがわかるわけですね。
 私自身は、『般若心経』は智慧を実践することの大切さを教えているものだと認識していますから、読むときは「実践しなきゃ、実践しなきゃ」という気持ちで読んでいます。実践というのは、”六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)”であり、そのやり方として、最後にある智慧が重要なんです。
 たとえば、布施を実践する場合、【不増不減】(ふーぞうふーげん)とあります。お金を寄付したからといって、減ったわけじゃない。逆にお金が儲かったからといって、増えたわけでもない。流れているだけで、【空】であると、『般若心経』は教えているんです。

陀羅尼(だらに)のすごいところは現在完了形であること

 声にだして読んでみると、『般若心経』は音のつながりとして、読みやすいものではないと私は思います。【色不異空 空不異色】のあたりなどは、私でも読みにくいと感じることがある。これは原文を漢字に訳した玄奘三蔵という人が、音に対する配慮よりも、意味的に正確であることを優先した結果だと思われます。
 ただし、前半に比べて、最後にある【羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶】には、音のスムーズさがある。
 この部分は”陀羅尼”(だらに)といって、わかりやすくいえば、”おまじない”です。陀羅尼は音を重視するもので、基本的には翻訳してはいけないものなんです。
 『般若心経』をすべて覚えられない人は、最後の陀羅尼の部分を唱えるだけでも功徳があるともいわれていますが、お釈迦様は原則的におまじないは禁じていたんです。ところがおまじないは仏教よりもはるか以前から存在していて、それを信じる人も現実にいたわけですから、お釈迦様は否定はしても、完全に排除はしなかった。布教活動は、言ってみれば古い革袋に新しい酒を入れるようなもので、革袋そものもを奪ってしまうようなことはしなかったんですね。
 そして、『般若心経』にある陀羅尼のすごいところは、文法的に未来形や現在進行形ではなく、現在完了形であるということです。この部分はいろいろな言葉に訳されていますが、原文のサンスクリット語の【ガーテー=羯諦】は「行く」、【ボーディスヴァーハー=薩婆訶】は「悟りを成就した」という意味です。つまり陀羅尼の部分は、「到り着いちゃった」と言っているんです。
 お経には【薩婆訶】という言葉がたくさん出てきます。これは「成就したぞ」と唱えているわけですが、現在完了形というのは、私たちの祈りや願いが叶うための、一番有効な唱え方なんです。
 風邪をひいたときなどは「早く治りますように」と念じるよりも、「なんだか治っちゃった」と声に出して言ってしまった方が、体はその通りに反応するものなんです。これは自立訓練法などでも確かめられている効果で、治ったと言い聞かせることで、安心感が得られ、安心すると白血球のリンパ球が多くなって、自然治癒力が高まるということが起きてくるんです。その効果を、お釈迦様はちゃんとご存知だたっというわけですね。
 もちろん、勉強するからには陀羅尼の部分だけでなく、最初から最後まできちんと唱えて欲しいものですが、読んでいるときに意味を考えると、必ず間違います。『般若心経』の音を覚えることと、意味を考えることは、まったく別な行為として分けて取り組んだほうがいいと思います。
 意味を考えずに暗記するというと、ご利益がないと思う人もいるかもしれませんが、暗記は絶対におすすめします。暗記しているものを唱えるという行為は、脳全体を活性化させる行為でもあるんです。
 医学的には解明されていない点もありますが、脳梗塞などで言語機能が低下して、言葉がでない状態になったような場合、言葉を取り戻すための突破口になるのが、暗記しているものなんです。私のお寺(福聚寺)の和尚も、2度、脳梗塞になりました。それこそ、お経も読めなくなってしまいましたが、リハビリを始めると、まずお経から読めるようになるんです。2度とも、お経が突破口になって、普通の状態に戻りましたからね。『般若心経』は、暗記するだけでも、貴重な財産になると私は思いますよ。


2005/11/26 一個人掲載

タグ: 仏教, 般若心経